バルチック艦隊技術将校,ポリトゥスキーの日記
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これはポリトゥスキーの日記を,書かれた日にちに合わせて公開するものです。100年前の日記をブログでその日に合わせて記していく試みは初めてではないかと思います。
ポリトゥスキーは日露戦争においてバルチック艦隊に技術将校として乗組み,221日間にわたる航海ののち日本海海海戦で戦死しますが,その間の記録を几帳面に日記に書き,これを妻に宛てて送り続けました。この日記は1904年9月10日から始まり最後は翌年5月23日で終わっています。
ポリトゥスキーなどという人の名前は聞いたことがない,という方も多いと思いますが,司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』には80回も彼の名前が出てきます。決して遠い存在ではないのですね。(2005年9月)

単行本が刊行されました

このサイトが発展して,この内容が単行本になりました。
ポリトゥスキーの日記の新訳が文生書院(http://www.bunsei.co.jp/)から本日,『リバウからツシマへ』というタイトルで発売されました。A5判310ページ,定価は2,520円です。
興味のある方はぜひ手にとってご覧ください。英語訳との整合を図るとともに,注釈を充実させています。
お求めは発行元の文生書院に直接ご注文ください。mail ( info@bunsei.co.jp ),Tel (03-3811-1683) または Fax (03-3811-0296) でお願いします。Amazonからでもご注文いただけることになるはずですが,いまのところ時期は未定です。
「リバウからツシマへ」表紙.jpg

2009/10/10 in その後 | Comment (0)

バルチック艦隊旗艦「スワロフ」の仕様

ポリトゥスキーが乗り組んだ,バルチック艦隊旗艦「クニャージ・スワロフ」とは,どのような艦であったのか,少し紹介しておきます。


  • 艦船名:Kniaz Suvarov(クニャージ・スワロフ)
  • 艦  種:戦艦(’戦闘艦とも言われる)
  • 進  水:1904年9月25日
  • 仕  様:Borodino級4番艦として建造される
  • 建  造:バルチック造船所(サンクト・ペテルブルグ)
  • 全  長:121メートル
  • 全  幅:23.2メートル
  • 出  力:16,300馬力
  • 排水量:13,516トン
  • 主機関:石炭燃料によるレシプロエンジン
  • 速 力:18ノット
  • 主兵力:
    • 30.5cm連装砲2基(オブコフ式)
    • 15.2cm連装砲6基(オブコフ式)
    • 75mm単装砲20基(カネー製)
    • 47mm単装砲20基(ホチキス製)
    • 38.1cm魚雷発射管4門

    ボロディノ(Borodino)の写真
    このサイトのトップにあるロゴ写真はスワロフのものですが,スワロフはボロディノ型戦艦なので,以下にネームシップであるボロディノの写真を掲載します。
    Borodino


    スワロフの側面図
    バルチック艦隊旗艦スワロフ

2009/02/20 in その後 | Comment (0)

英訳版で原稿を修正しました

From Ribau to Tsushima_s.jpg
今日は104年前にポリトゥスキーが妻に送った最後の日記が書かれた日です。そして,その4日後にスワロフとともに海底に没しました。
この日記は,『時事新報社』版を現代文に直して掲載してきたのですが,この『時事新報社』版には明らかな誤訳や活字の文選時のミスと思われる箇所があり,また,その他にも疑問の箇所がかなりありました。
ところが昨年に,マイクロソフトの基金によるカリフォルニア大学デジタルライブラリのひとつとして,『ポリトゥスキーの日記』の1908年にニューヨークで出版された英訳版“From Ribau to Tsushima”全ページのPDFが同大学のサイトからダウンロードができるようになったので,この英訳版をもとに原稿を見直し,このほど,その作業を終えました。ただし,時事新報社版と英訳版には,いたるところに異同があり,残念ながら,この作業ですべての疑問が解消できたわけではありません。
なお,現時点ではこの結果をこのブログに反映することはしていません。この結果は改めてブログとは別に公にする予定です。

2008/05/23 in その後 | Comment (0)

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2007/10/31 in その後 | Comment (0)

ポリトゥスキーの日記を終えるにあたって(その四)

最後に,信濃丸がバルチック艦隊を発見してからクニャージ・スワロフが撃沈されるまでの動きを掲げておきたい(詳細は澪標の会編纂DVD版『日露戦争アーカイブズ』を参照いただきたい)。
1905年5月27日のことである。

  • 27日午前2時45分,哨戒中の仮装巡洋艦信濃丸が北緯33度10分,東経128度10分の地点において東航する一汽船の灯火を発見。
  • 午前4時30分ごろ,信濃丸はさらに船影に近づき,三穡二煙突の艦型がロシアの仮装巡洋艦に似ているが備砲がないことを確認,ロシア病院船を疑い臨検を行なおうとしたが,左舷1,500メートル以内の距離に十数隻の艦影と,それ以外にも煤煙を発見,信濃丸がロシア艦隊の真ん中に位置していることを知るに至る。午前4時45分,この状況を打電。
  • 午前5時44分,信濃丸からの報告により,第六戦隊第10,15艇隊が出航。第六戦隊の出航に続き,片岡第三艦隊司令長官は第五戦隊第11,20艇隊および竹敷要港部所属第17,18艇隊並びに第18艇隊の白鷹を率いて出発。
  • 午前5時5分ごろ,加徳水道にあった上村第二艦隊司令長官は,ロシア艦隊出現の報に接し,所在総艦隊に出航を命じ,第一戦隊,第二戦隊,第四戦隊および第1,第2,第3,第5駆逐隊並びに第9,第14,第19艇隊は順次抜錨。信濃丸の電信によってロシア艦隊の出現を知った出羽司令官は,白瀬の北西にあった第三戦隊を南東に進路をとり,午前5時50分,ロシア軍の病院船を発見。
  • 午前6時34分,東郷連合艦隊司令長官は三笠を率いて第一戦隊の先頭に占位し,40数隻の艦隊を従え発航。哨艦和泉信濃丸からの電信を受け,進路を変えて策敵中,午前6時45分,北緯33度30分東経128度50分の位置においてロシア艦隊を発見,ロシア艦隊と併航し,その後の進路を逐次打電する。
  • 午前9時55分,片岡司令長官は神埼の南微東7海里半に達したとき,ロシア艦隊を発見。
  • 午後0時10分,片岡司令長官は第六戦隊をロシア艦隊の前方に出し,接触を確実とするとともに,東郷連合艦隊司令長官にロシア艦隊の状況を報告。
  • 午後1時39分,東郷連合艦隊司令長官は南西にロシア艦隊を発見,戦闘開始を命ず。
  • 午後1時55分,東郷連合艦隊司令長官「皇国の興廃此の一戦にあり各員一層奮励努力せよ」との信号旗を掲げる。
  • 午後2時2分,連合艦隊の主力は進路を南西微南に変更し,ロシア艦隊に対して反航通過を装う。
  • 午後2時5分,旗艦三笠は左折して東北東に変針。第一,第二戦隊の各艦も順次これに倣う。ロシア戦闘艦スワロフクニャージ・スワロフ)が砲火を開くもすぐにはこれに応ぜず,午後2時10分,ロシア艦隊との距離6,000メートル内外となるに及び,旗艦三笠が応砲,他艦もこれに倣う。
  • 午後3時6分,第一戦隊は日進を先頭に短縦陣をつくり,西北西に進航。ロシア艦隊旗艦スワロフ大破し列外に出る。
  • 午後3時7分ごろ,フェルケルザム司令官少将の旗艦で左翼列先頭艦オスラービア沈没。
  • 午後3時30分ごろ,ロシア艦隊の病院船アリョールカストローマは仮装巡洋艦佐渡丸満州丸によって三浦湾に抑留される。
  • 午後4時20分ごろ,特務艦アナドイリ撃沈される。
  • 午後4時30分ごろ,第三戦隊以下の砲撃によりルス沈没。
  • 午後5時ごろ,第四駆逐隊は孤立していたロジェストウィンスキー中将の旗艦で右翼列先頭艦スワロフクニャージ・スワロフ)を襲撃。
  • 午後5時50分ごろ,第一戦隊は仮装巡洋艦ウラールを撃沈。
  • 午後7時7分,第二戦隊の砲撃により右翼列第二番艦アレクサンドル三世沈没。
  • 午後7時10分,第五,第六戦隊は工作船カムチャツカを撃沈。
  • 午後7時20分,第五戦隊に随伴する第11艇隊よってスワロフが撃沈され、艦底に取り残されたポリトゥスキーも艦と運命を共にする。

            -----[完]-----

2006/05/27 in 日記解説 | Comment (0)

ポリトゥスキーの日記を終えるにあたって(その三)

戦場の兵士が日記を付けたという例はないわけではない。というより無数に存在するといってもよいであろう。兵士にもいろいろいるから,戦火の中でも状況を克明に書き綴った几帳面な人も多いのである。
世の中には「日記文学」というジャンルがあり,これらも多くの読者を掴んでいる。たとえば永井荷風の『墨東奇譚』などはそのひとつである。非常に生々しい記述であるが,本当の意味での日記とはいえない。なぜなら最初から読者を意識して書いており,推敲段階でさまざまな脚色が行われているからである。あくまでも「文学」としてみなければならない。
それに較べると戦場で書かれた日記は脚色の余裕などほとんどないので,生の言葉が伝わってくる。そこに価値があるといえよう。日露戦争に従軍した茂沢祐作(もざわゆうさく)という上等兵(後に伍長)は,明治37年2月5日から翌明治38年12月30日まで,戦地の中でも書き続けた。黒木為楨第一軍に所属したので,九連城,鳳凰城,遼陽と,まさに陸軍のメインストリートを戦いながらの日記であった。
明治天皇がロシアとの国交断絶を裁可したのが明治37年2月3日,そして茂沢祐作が日記を書き始めた2月5日には第一軍に動員令が下されている。
このような状況下で茂沢は日記を書き始め,戦争が終わって12月15日に帰国,同月23日には凱旋更新を行っているが,12月30日に「今日の正午をもって連隊の復員事務完結を発表したそうだから,この日誌も正午までにやめ」ようということを書いて700日に及ぶ日記の筆を擱いた。
ポリトゥスキーが逐次,ヨーロッパに帰る船や停泊している港の郵便局から妻の元に送ったのに対して,茂沢祐作は最後まで肌身離さずに自分で持っていたという違いはあるが,どちらも脚色をせずに見たまま聞いたままを書き綴ったという点で共通する価値ある日記となった。
茂沢祐作の日記は『ある歩兵の日露戦争従軍日記』として思草社から発行されている(兵頭二十八解説,2005)。これも一読を勧めたい。

2006/05/26 in 日記解説 | Comment (0)

ポリトゥスキーの日記を終えるにあたって(その二)

この連載を始めたのは昨年の9月10日である。
私は澪標の会が運営している「日露戦争アーカイブズ」(http://www.miotsukushi.net/)で『100年前の今月』の執筆を担当していたが,その中でもたびたび「ポリトゥスキーの日記」を引用した。
その間にこのBLOGを開設したのであるが,このWeb日記を100年前(正確には101年前だが)にタイムスリップさせて,ポリトゥスキーの日記をその日付で掲載することを思いついた。それによってポリトゥスキーをより確実に追体験でき,それが日露戦争の本質理解の一助にもなるのではないかと思ったからである。
と同時に,おそらくはBLOGで古い日記をその日に合わせて掲載するとなどという試みは,他にはまだないのではないか,つまり新しい試みといえるのではないか,という思いもあった。
こうして,海軍勲功表彰会本部が発刊した『露艦隊来航秘録』(時事新報社翻訳,明治40年11月18日発行)を底本に,今の人たちにわかりやすい文章に改めて発表し続けた。
そして新しい文章に直しながら書き続けていくうちに,他の公的な資料では得られない「真実」が見えてきたように思えてきたのである。そういう意味で,自分にとってこの試みは成功だったと確信している。

ポリトゥスキーは,バルチック艦隊乗り組み技師として大西洋から喜望峰を回ってインド洋を通り,さらに太平洋から日本海まで7ヶ月半にもわたって過酷な航海を続けた。そしてついに5月27日午後2時過ぎにスワロフが砲火を開いて海戦がはじまったのであるが,たった5時間後の午後7時20分にスワロフが撃沈され,それとともにポリトゥスキーも帰らぬ人となった。
7ヶ月半の航海もけっして順風満帆などといえるものではなかった。艦船の故障は毎日のようにあり,その都度ポリトゥスキーは修理に借り出されたし,酷暑や暴風といった自然の猛威に晒される状況も多かったが,それよりも艦隊行動の計画自体がはっきりしないための精神的なストレスは想像を絶するものであった。航海中には多くの自殺者や精神の異常をきたした者がいたこともたびたび日記で触れられている。そうした艱難辛苦の果ての,たった5時間の戦闘ですべての苦労が灰塵に帰すのである。故国に最愛の家族を残して。
戦争とは何と空しいものなのであろうか。つくづくそう思う。

2006/05/25 in 日記解説 | Comment (0)

ポリトゥスキーの日記を終えるにあたって(その一)

時事新報社によって翻訳された『露艦隊来航秘録』から,最後の日記の後の解説文を,これも現代文に直して紹介しておく。

これ(5月21~23日の3通の日記)は上海から送られた最後のものとなった。彼の妻がこれを受け取ったのは6月である。 海戦の際に戦闘艦クニャーズ・スワロフが散弾の貫通孔を受けたために,技師ポリトゥスキーは艦底でその孔を塞ぐ指示をしていた。その後,この艦の旗手佐官がポリトゥスキーに病室で会ったのが最後になった。佐官が語るところによれば,そのとき彼が戦況はどうかと聞いたので「悪い」と答えたという。 その後幕僚の一部は駆逐艦ベドウィに移乗し戦闘艦を離れ去ったが,艦底にいた者を呼び寄せることはしなかった。彼らを省みることなくロジェストウェンスキー提督の「貴重な」命は救われたのである。

以上である。こうしてポリトゥスキーは,あと3ヶ月で31歳の誕生日を迎えるという若さで短い一生を終え,スワロフとともに海底に沈んだ--。

2006/05/24 in 日記解説 | Comment (0)

5月23日 (最後の日記)

東シナ海にいる。フェリケルザム提督は危篤に陥った(長村注:同提督はこの日に病没している。しかしこの事実は艦隊への士気の低下を恐れてのこともあって極秘にされ,戦闘艦オスラービアは将官旗を飜したまま日本海海戦に突入することになる。)
石炭を積み込んでいる。天気は曇っているが,静穏で涼しい。多くの人々はすでに半外套を着はじめた。
イルツイシの艦長は,この艦の速力が8ノット以上は出せないことを申告してきた。いまこの運送船をどのように処遇すべきだろうか。この艦は軍艦旗を掲げている。もし上海に行かせれば武装を解かれて戦争終結まで何も働くことができなくなってしまうだろうし,艦隊に伴わせれば全艦隊にとって無用の邪魔者になってしまう。
わたしは自らこの手紙を差し立てることにする。故郷の家族に手紙を出そうとするものはいないのだ。みなウラジオから手紙を出したほうが早く着くという。しかしそもそもウラジオから発送することが期待できるものなのか。また,どこから発送する手紙が早く着くかはわからないのだ。
ウラジオまでは1,200マイル(2,100露里)を残すだけとなった。うまくいけば6,7日でこの航程を走破できるだろう。
私は自らこの手紙を差し立てることにする。故郷の家族に手紙を出そうとするものはいないのだ。みなウラジオから手紙を出したほうが早く着くという。しかしそもそもウラジオから発送することが期待できるものなのか。また,どこから発送する手紙が早く着くかはわからないのである。

長村注:祖国ロシアの妻の元に届けられたポリトゥスキーの日記は,これが最後となった。ポリトゥスキーの搭乗艦スワロフは4日後の27日午後7時20分に日本の連合艦隊第五船隊によって日本海で撃沈され,彼も運命をともにした。少なくともその前日までは日記を書き綴っていたかもしれないが,投函される機会はもはやなく,書かれていたとしても艦とともに海底に沈んでしまったのであろう。

2006/05/23 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月22日

石炭の積み込みはついに実施できなかった。天候がよくなかったからだ。今日も上甲板の艦尾の休息所で寝た。テレークは艦隊を離れて偵察任務――汽船の拿捕のために赴いた。
天気は一変して曇りだし涼しくなった。ある人はすでに感冒に罹りはじめた。フェリケルザム提督の病は重いが,何とかしてウラジオまで無事に到着させたいものだ。
夜9時,太平洋に別れを告げて東シナ海にいる。わが運送船は上海に向けて航行している。いまはこの運送船だけを向かわせることができた。上海には,ここで武装を解かれたわが艦船が出航することのないように日本の船がいるものと推察される。上海に向かうのはウォロネジウラジミールヤロスラーウリメテオルリウオニヤクロニヤなどである。もしかするとスウイリも遣わされるかもしれない。
メテオルは給水船,スウイリは曳船用汽船だ。スウイリは意外にも速度が至って遅い。もしこれらの船舶がみな離れ去るとすれば,商船旗を掲げてわが艦隊にいるのはコレヤルース(人々はこの船をローランドと呼んでいる)だけだ。ルースは曳船用汽船である。赤十字旗を掲げるオレーグコストローマも残る。軍艦旗を掲げている運送船はカムチャツカアナズイリイルツイシなどの諸艦である。イルツイシは九ノット半以上の速力を出せないとのことで,この艦が他艦の邪魔をすることになれば非常にまずい。
台湾を通過し,また日本領の若干の小島の沖を過ぎた。ウラジオはぐっと近づいた。東シナ海を横切り,朝鮮海峡を通過して日本海に入ることになるのだが,その沿岸に待ちに待ったウラジオがある。
日本人はどうしているのだろう。彼らはどこにいるのか。日本人は必ずわたしたちを攻撃するために堂々たる準備をしているに違いない。たぶん朝鮮海峡かその付近で激烈な水雷攻撃があるだろう。月の出の時刻が遅いので夜襲は防げる。艦隊戦があるはずだが,日本は必ずわが艦隊がウラジオに着く前にわたしたちに仕掛けてくるだろう。これは日本にとってたいへん都合がよいからだ。わが艦隊は大航海をしてきて、もし艦隊に残る運送船が4,5隻に過ぎないとしても,とにかく運送船で艦隊の活動を制限させられることを免れない。
日本はウラジオ付近に水雷を沈置したに違いない。そうだ。いまから一週間もたてば全世界にわが艦隊のうわさが伝わることになるだろう。
日没後には水兵にネルの下着を着るように命じられた。まもなく冬服を着なければならないだろう。
今日も石炭の積み込みができなかったので,また明日に予定されている。上海に赴く運送船の一隻に手紙を託すことができるだろう。果たして郵便差し立ての好機会があったが,たぶん誰もこの好機会を利用するための準備をしていないに違いない。◇

2006/05/22 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月21日

明日はまたも石炭の積み込みをする。この石炭積み込みの大混雑はいつ終わるのだろうか。たぶん,ウラジオに着くまでの積み込みはこれが最後になるだろう。今日,北回帰線を横切って回帰線外に出る。
昨夜就寝した際に鼠に足の指を噛まれた。実にいやになった。艦内生活の狭隘と不潔とはもうたくさんだ。
拿捕船オルダミヤは艦隊から離れた。この船は1隻でウラジオかコルサコフ,あるいはもし霧に妨げられなければペトロパウロフスクに向かうことになる。この船のそばにクバンが1隻残った。クバンは,もし可能ならば拿捕船に対して石炭100トンを供給し,その後オルダミヤだけで航行しクバンは禁制品搭載船の拿捕に赴くことになる。オルダミヤは新造汽船で昨年竣工したとのことである。その汽船は久しく禁制品の輸送をしていたとのことで,何の貨物か日本のために大連に輸送し,またロシアのためにウラジオに輸送したとのことである。
オルダミヤの船長は最初に無遠慮にロシア人を嘲って日本人を賞賛した。彼はこの船から艦隊への転乗を命じられることを予期していなかった。しかし船長は自分の船から艦隊の方に転乗させられることが発表されるや否や,彼の態度は一転し,汽船から出ながら涙を流して泣いていた。
英国人たちはオルダミヤを退去するに当たって悪巧みをした。機関区画内のキングストンを開いたので汽船は沈没し始めたのだ。しかし開けられたキングストンを我が水兵がすぐに発見してこれを閉じた。さらに錨杜(シトック)の方向を示す小板をみな剥ぎ取ってしまったので我々自らこれを判断しなければならなかった。
昨日もオルタミヤの汽缶付近に我が水兵のいたときに危ないところで汽缶の破裂を免れた。機関士がその不幸を予防することができたからである。もちろん,もし我々さえ注意していれば英国人たちはキングストンを開くことも掲示札を剥ぎ取ることもできない。よく英国人たちを追跡して,1分間たりとも彼らを機関室や汽缶部に入れさせてはならないことは火を見るよりも明らかである。
今日までまだ禁制品を発見せず。禁制品を積んでいると思われた船倉にはすべて石油を積んでいて,その上から大きなブリキで覆われている。船底まで調べるにはすべてのブリキを剥ぎ取らなければならない。

2006/05/21 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月20日

見よ,我が艦隊はすでに太平洋上にいる。この海洋はなぜか「大なる」洋と称せられている。バタン群島のそばを通過した。ここには噴火山があるということであるが,戦闘艦からはこれを見ることはできなかった。
今夜は上甲板艦尾の休息所で寝た。私室の開けてある明かり窓から吹き込んだ波しぶきのために吊り床がかなり濡らされてしまい,そこでは寝られなかったからである。
昨夜は波浪に妨げられ,拿捕船オルダミヤに対して十分な石炭を積み込むことができなかった。今日も波のために石炭積み込みが妨害された。もしこの船にウラジオまでに必要な石炭を積み込むことができなければ(サガレンの)コルサコフ港に行くようにとの命令が与えられた。
オルダミヤには石炭の積み込みができたが,我が艦の乗員がまだ200人も残っている。波が高くて彼らを引き取ることができないのである。また明日,彼らの引取りを試みることになる。
ウラジオまではまだ2800露里を残している。我々はこの航程中にどんなことに遭遇するであろうか。
昨日から戦闘になったときのための準備を始めた。準備といってもいたって簡単なもので,革包みを開いて何等の説明を待たずに何物かをそこここに運び,または肖像や書面や妻の写真などをどこかに隠した程度である。

2006/05/20 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月19日

南シナ海にいる。タンポーフメルクリーに郵便を託した。艦隊は石炭の積み込みを終わり,いよいよ機関は最高出力に上げられて前進を始めた。
夜,自室で浮流水雷を発見した場合に対処するための諸艦隊列命令を石版に書いた。
リオンドネブルクバンテレーツクの諸艦を順次偵察任務に出すとのことである。ウラルは派遣されない。この艦は信頼されていないからであって,この艦の艦長は艦の武装を解くことの想いを公然と口外しているのである。
今夜,私は艦尾のブリッジでオレーグが一隻の汽船を追跡して行った結果の報告を待った。しかし人々と談笑しているうちに転寝をしてしまった。1時ごろに就寝しようと思い自室に入ったが室内でしばらく座っていた。
2時にオレーグが臨検の結果を報告してきて,この船の船長がこの汽船に搭載している貨物の送り状を持っていないことを白状し,また船長自身も搭載貨物の詳細を知らずに石油を搭載していたとのことであった。この汽船はニューヨークから日本に向かっていたという。そこで船足の遅いこの汽船に艦隊に同伴してくることが命じられた。この船は疑わしい汽船として拿捕されたのである。この運送船は調査のためにウラジオに護送される。
水兵と旗手とがこの船に移乗し,スワロフからの旗手仕官の一人は艦長に任命された。この船の船長と機関士はこの船に留置された。もちろん何等の権利をも与えられず,単に乗客として残されたのである。他の乗員は我々の諸艦に移された。乗員たちは尋問に対してみなさまざまな答えをした。ある水夫は搭載貨物の中に大砲や砲弾があることを告白した(残る一人の水夫は汽船が拿捕されたときに,船長に知られないように手まねでこの汽船の中に何か丸いものが積み込まれていることを示した)。この汽船がどこから来たのかは判明していない。乗員の答えはいろいろである。この汽船オルダミアは我が艦隊とともに津軽海峡を通過してウラジオに行くことになる。
これは果たしてよいことであろうか。あるいは途中で日本人の襲撃に出会わないだろうか。むしろこの船は禁制品を搭載しているものと認定して乗員を我が艦に移乗させた上で汽船を撃沈することの方がかえってよいのではないか。
この船を拿捕するために多くの時間を費やし,全艦隊は正午まで動かずに停止していた。この船の乗員のために食料品や石炭などを積み込んだ。この船は石炭がウラジオまで行くためにはまったく不足しているのであった(ネボガトフ艦隊の運送船リウオニアから石炭を転載した)。

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5月18日

朝8時,全艦隊は石炭の積み込みを行っている。海は静かだ。しかしうねりは比較的高く,大戦闘艦でさえ揺れるほどである。たいへん暑いが,まもなく涼しくなるだろう。赤道地方を経由してきた者にとって,その涼気はどのように感じるだろう。病人が多く出ることだろう。タンポーフメルクリーは艦隊とともには前進せず,今日サイゴンに引き返すことになるとの話が出始めた。ただ驚くほかはない。万事何事についても一度決定したことが簡単に変更されてしまうのである。したがって誰も確実なことを知っている者はひとりもいないのだ。

2006/05/18 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月17日

今日の石炭積み込みは,たぶん外洋における積み込みの最後になるだろう。
石炭を摘み取られた後のタンボーフメルクリーはサイゴンに帰航するものと思う。これらの船に通信を依頼しよう。また他の運送船も我々と分かれて上海に赴くだろうとの噂がある。残るのは軍用船(カムチャツカイルツイシアナドイリ)その他,軍需品を積んでいるコレヤのみである。
もしこれが実行に移されるものとすれば,我が提督は艦隊のウラジオ到着前に日本艦隊と艦隊戦をすることを自ら期しているものと察せられる。
夜10時,無線電信班において電信の信号を感じた何人も,その意味を解することができなかった。

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5月16日

いままではすべて無事に航行できており,航海は安泰である。今日は8時に起床したため朝のお茶に遅れてしまったので,ひとり自室でお茶を飲んだ。

2006/05/16 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月15日

我が艦隊の航路は台湾を迂回して東岸を通過せざるを得ないと予想されていたが,その予定のとおりになった。私の考えでは台湾島を通過する前に,まず海南島に到着するものと思っているが,そうでないかもしれない。
夜間に,諸船舶が北から南に向け,またはその反対に航海する航路を横断したが,そのとき2隻の汽船に出会った。彼らは我が艦隊が選んだ航路のことを報告するだろう。
いま我が艦隊はふだん汽船が航行しないシナ海に入って航行している。石炭積み込みのことの話が始まった。明日早朝に石炭を積み込む。駆逐艦は運送船に曳かれて航行している。いままでのところ破損挫折等のできごとはなく航行している。

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2006/05/15 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月14日

昨日,病院船カストローマが艦隊に合流した。この船はサイゴンに寄港してそこから郵便物を搭載してきたが,私は4月10日後に投函された最新の郵便物を入手した。すこぶる早く到着したが,みなギンスブルクを経て送致された分だけであった。他の艦でも,いずれも多数の郵便物を受け取ることができ,それを分類するのにかなりの時間を要したほどであった。
今日,我が艦隊はホートタイオートを出航してウラジオに向け出航し,南シナ海をひた走る。我が艦隊は50隻の艦船から成り,その中の9隻は駆逐艦,2隻は病院船である。アルマダは大船である。たぶん台湾を回り朝鮮海峡を通過することになろう。ウラジオまでの間に艦隊の砲撃戦があるかどうかは疑わしい。しかし水雷艇と潜航艇の凶暴な水雷攻撃は免れないものと思う。

2006/05/14 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月13日

コストロマが来航した。たぶん郵便物を搭載しているものと思う。

2006/05/13 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月12日

手紙の発送が非常に遅々たるために人々はみな激怒した。郵便物はスワロフから朝の4時に持っていったが,その郵便物は遅れるだろうと思う。もし我々が湾内に留まるのであれば私も手紙を差し立てることができる。
我々は早朝から外洋に出た。ウォロネージタンホーフはサイゴンに赴くことになると思われるが,いつ出航するかは誰も知らない。
何の汽船か,一度隠れようとした汽船が我が艦隊に近づいてきた。我が駆逐艦および哨艦の任務にある巡洋艦がその汽船を追っていき,その汽船は英国の国旗を掲げた。この船には臨検せずに単に尋問した。その結果,日本から南方に航行するもので苦力(清国の労働者)を搬送するのだということであったのでこれを開放した。
依然として外洋に漂泊している。ここから明晩あるいは明後日の朝に出航する。
(第三艦隊の)病院船はまったく艦隊に合流しないとのことである。いま我が艦隊の艦船が果たして何隻になっているかがわかるだろうか。実に52隻の多きに達したのである。もしサイゴンにある運送船の一部を加えればさらに多数になる。

2006/05/12 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月11日

ベスウブレーチヌイ修理の私の仕事はうまくいった。ダイオト港から駆逐艦ボードルイで艦隊に帰航したが,途中,石炭積み込みのためにホンコーヘに引き返す我が艦隊に出会った。外洋は波が高く石炭の積み込みが困難なためである。ここから明朝に出航することになるが実にわずらわしいことだ。我々は強制的に放逐されながら何回もここに現出する。ダイオト港は実際ホンコーヘの一部に過ぎず,ホンコーヘに広い海峡で連絡されている湾である。ダイオト湾は非常に風光明媚であり,海岸は断崖絶壁で草木が繁茂している。湾の一隅に難破したフランス砲艦が一隻横たわっていて,いまそれを取り壊している。陸岸には山羊,孔雀,猿,象,その他の動物がたいへん多い。
昨日はベスウブレーチヌイで午餐の饗応に与り,数時間甲板の上で談笑した。夜ははなはだ静かであった。の艦の乗員はみなたいへん睦まじく生活している。誕生日や命名日などには互いに贈答をし,時にはその贈り物がいかにも珍奇なものであることもあるという。この駆逐艦に一泊することを勧められたが辞退してカムチャツカに赴いた。カムチャツカでは私のために一室を備えてくれたが,私は空気が新鮮な甲板上のロングセーズに寝た。6時に私のために駆逐艦が遣わされた。カムチャツカで,スワロフに種々の手工作品を持っていくことを勧められたが持っていくには不便だったのでついに受け取らず,8時にカッターでスワロフに帰艦した。

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2006/05/11 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月10日

あなたに手紙を書こうとしたのだが,クローズヌイベスウブレーチヌイが衝突したので急いで両艦を修理しなければならなくなった。我々はいま外洋に漂泊しており,駆逐艦は我々から30露里離れて湾内に停泊している。私はどうしても駆逐艦に出張なければならない。
午後4時,駆逐艦ブイストルイに移乗するためにずいぶん久しぶりでウェリボート(長艇)に乗った。私はブイストルイで艦隊の一部が碇泊しているダイオト港に赴く。
オレーグにも出張し,そしていまカムチャツカに乗っている。この手紙をドイツ石炭船に託すことができるかどうかはわからない。
艦隊に着く手紙は概してたいへん少ない。それでみな不平を言っているのだが私は満足している。ブイストルイで朝食を摂った。明日の早朝にスワロフに戻る。
将校自身が上着にアイロンなどをかけているは非常に奇妙に見える。私は駆逐艦でこのような光景に出会った。
ベスウブレーチヌイの作業はそんなにたいへんではなかった。クローズヌイは大損害を受けて陸岸に乗り上げたと聞いて私はおおいに驚いたが,そのようなことはなく幸いであった。
我々はまもなくウラジオに向かう。

2006/05/10 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月9日

まだ抜錨していなかったが,我々を追い出すためにまたもフランスの巡洋艦が来航した。これを機に錨を上げて全艦隊が動き始めた。第三艦隊を迎えるために赴いたイズムールドドネブルが帰来したが,両艦は第三艦隊には遭わなかったとのことである。リオンジェムチューグはまだ帰航しない。あるいはこの2艦はネボガトフ艦隊に出会ってこの艦隊に合流したのではないか。
ネボガトフ艦隊から一歩先に来たウラジミール・モノマフからの電信を受けた。第三艦隊は一まとまりになって来艦するという。まもなく合流するだろう。
第三艦隊の状況はどうだろう,またその士気は果たしてどの程度のものか。艦長はどういう人たちだろう。それを知ることはなかなか興味がある。第三艦隊の多くの艦長に対してはみな嘲笑しているのだ。彼らは従来の官職では知られているが,戦争になれば万事が変ってしまう。不良なるものが良好なるものに変じ,あるいはその反対もあり得るのである。
午後2時,ネボガトフ艦隊のマストや煙突などが見えた。人々は欣然としてブリッジに集まった。みな望遠鏡を奪い取るようにしていた。ついに我々は前進することができる。これ以上,何も希望することはない。

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2006/05/09 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月8日

明日ホンコーヘを出航するとのことである。オスラービアに勤務している将校ケデオノフは病院船アリョールで死亡した。明日には彼の水葬が挙行される。
私は旅順艦隊の人員の状態と彼らの士気と秩序とに関して詳細を知れば知るほどこの艦隊が壊滅したのはむしろ当然のことに思え,ますますその滅亡を驚き悲しむ心を感じる。もちろん艦船ははなはだ残念なことをした。日本海軍もまた幾多の大きな誤謬を犯した。
サイゴンから汽船エリダンがフランス国旗を掲げて種々の物資を搭載して来泊したが,私はこの船からあなたからの手紙を入手した。ギンスブルクがサイゴンにいる兄弟メッス(ギンスブルクの本姓はメッスである)に宛ててくれたものである。郵書は非常に少なく,幕僚の中で手紙を受け取ったのは私一人だけであった。私の満足はいかばかりであっただろう。今日は実に幸福な日になった。

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2006/05/08 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月7日

湾の近くで何かの火光かが終始閃いているのが見えたが,哨艦任務にある巡洋艦は何事なのかがわからないという報告をしてきた。我々はこれらの諸艦を信頼すべきだろうか。これらの諸艦の中の一艦長は自艦の武装を解く希望をあえて隠そうともせず,この武装を解く想像さえもしているとのことである。
旗艦の耳目となって働くべき哨艦が当然になすべき行動をまったくしない。その一例を示すと,この哨艦は陸岸から3マイルの地点にあるべきことを命じられているのに30マイルも沖に出ていた。この哨艦の艦長にとって我々の艦隊の進航は何らかの仇敵視すべき行動のように感じられるのだろう。彼らはなぜか今度の戦争のときに4隻の新戦闘艦(長村注:クニャージ・スワロフ,インペラトール・アレキサンドル三世,ホロジノ,アリョール)の中からアレキサンドル三世は滅亡するということを信じている。

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2006/05/07 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月6日

昨夜は室内が非常に蒸し暑かったので1時ごろまで船の上を散歩し,ついに艦尾甲板の長椅子の上で一睡した。5時に目を醒ましたが,枕もしないで寝たので寝心地が悪く,頭を動かすと首まで痛い。
今日は陛下の命名日で感謝の祈りがあり,各艦から礼砲が撃たれた。このとき軍艦の付近に多くの中国船がいて,その中には安南人が乗っていたが,大砲の発射が始まると彼らは大いに驚き狼狽して逃げていく有様は見ものであった。
朝,駆逐艦に出張した。次第にすべてのことに対し簡便なやり方を身につけた。たとえば紙巻タバコを巻くためにタバコを封筒に入れておくようになったが,これは巻き煙草入れに仕舞っておくよりたいへん便利である。
ネボガトフ艦隊は未だ来航しない。この艦隊の消息情報も入ってこない。ネボガトフ艦隊ははたしてほんとうに来航するのだろうか。もし来航するとすれば日本からの襲撃に会うかどうかという賭けや会話が館内のどこでも盛んに行われている。アウローラの将校たちはネボガトフ艦隊の来航如何に関して賭博をした。

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2006/05/06 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月5日

今日は終日あなたに手紙を書くための寸暇をも得ることができなかった。朝,諸艦に出張し,イルツイシにも赴いた。この艦の館内の空気は非常に不潔である。イルツイシの副艦長は艦長に対して何か暴言を吐いたために特別委員会の裁判に付され,裁判は7日に開かれる。
ドイツの石炭船ネウミウミューレンに出張した。この汽船の船長はもちろんロシア語がわからなかったがフランス語は少し通じたので,とにかく必要なことだけは話せた。駆逐艦グロムスキーで朝食のご馳走になった。この艦の舵は大洋の中で修理したものなので潜水夫に確認させようとしたが大丈夫とのことであった。しかし非常に危険である。もし舵が脱落したら駆逐艦はどうすることもできない。かつ敵は身近に迫っているのである。
4時にスワロフに帰艦した。ブイストルイの艦長は書面で出張を依頼してきた。この艦に何かよくないことが生じたらしい。今日は出張できないので,できれば明日にでも出張することにしたい。

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2006/05/05 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月4日

11時ごろに信号の砲声の音を聞いたので上着を着て甲板の上に出た。艦内のいたるところに人々が駆け回って,戦闘の際に彼らのいるべき位置を確認しようと急いでいた。そこここに「一発か二発か」と質問しているのを聞いた。これは号砲のことを聞いているのである。一発の信号砲は全艦隊の戦闘演習の警報であり,二発の場合は敵艦が近づき実戦があるという信号である。いまの号砲は一発であった。夜間の警戒は我々には非常にまれであって,みなはこれに慣れていない。各艦は探海灯を照らした。

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2006/05/04 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月3日

フランス巡洋艦は湾内から出たが,私たちは一夜を外洋で過ごした。ネボガトフ艦隊のことに関しての情報はない。実に不思議である。予定通りであればこの艦隊はすでにシンガポールを通過したに違いないし,もちろんその情報もあってしかるべきである。
我が提督は,ネボガトフ艦隊が我が艦隊に合流する前に日本人によって撃沈させられるものと確信している。撃沈には至らないまでも損害は免れないものと思っている。そのようになったならそれらの諸艦を修理しなければならず,したがってウラジオに向けての出発は無期限に延期されてしまうことになる。ネボガトフ艦隊と合流した後にはウラジオに到着するまではロシアとの交通はまったく断絶することになると思われる。いまは公報だけではあるがペテルブルグからの電報は受けている。ネボガトフ艦隊と合流後はこれもだめになるであろう。
ネボガトフ艦隊はすでにスンダ海峡を通過したのではないか。ネボガトフは次のような行動を取るべきである。すなわちネボガトフはマラッカ海峡に到着して人々にはこの艦隊がシンガポール沖を通過するものと信じ込ませ,そこで進路を一転してスンダ海峡に回るというものである。
あるいはマラッカ海峡を通過するとすれば日中に航行し,夜には燈火を消して陸岸近くに投錨して碇泊するべきである。このようにすればネボガトフは海峡通過のために多くの時間を要するのは必然である。もし両艦隊が合流することができるとすれば,朝鮮海峡到着する前に戦争を期待することは難しい(ただし魚雷攻撃は別として)。これももちろん,朝鮮海峡に到着することとしての話である。日本人にとっては自分の港湾を遠く離れて艦隊戦を行うのは不利であり,我々にとってはどこでも同じである。ウラジオの付近にもロシアの港湾はない。

2006/05/03 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)

5月2日

ネボガトフは26日ではなく28日にペナンに通過したとの電報があった。もしそれが確実であればネボガトフ艦隊の来着は今日ではなく4日になる。
朝,駆逐艦グロームキーペスウブレーチヌイボードルイに赴いた。旗艦の潜水技師を訪ねるためにスウェトラーナに行くために支度をしたが,彼の方からスワロフに来た。スワロフの多くの人はその手紙をロシアに差し立てるために託し,私もそのようにした。
戦闘艦アリョールにおいて牝牛の件で騒ぎが起きた。誰の仕業か牝牛の足を折った者がいて,その牛を屠って肉を乗員の食に充てた。しかし乗員等は斃死した牛の肉を食べさせられたとの流言を流したためにすぐに騒動になり,そのために提督自身が今朝アリョールに出張したのである。この艦では電雷の襲来が一時に来たときのように,艦長も将校も乗員もみなその襲撃を受けた。
アリョールの乗員は実に醜穢な人物が多く,水兵の中には罰金の処分を受けた者が非常に多い。私はかつてあなたにアリョールの乗員は水兵ではなく囚徒であると述べたことがあるのだが,あなたは覚えているだろうか。
戦闘艦アリョールに,この艦の沈没と二つの機関を破壊しようと試みた者があることを記憶している。乗員の放縦の多くは艦長の責任である。この艦の艦長はなぜか乗員のこのような行為を傍観し,かえって,もし士官の中に規律を厳粛にしようとする者があると,その士官を迫害するような風潮がある。規律などはもちろん,単なる秩序さえも存在しない。

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2006/05/02 in ポリトゥスキーの日記 | Comment (0)