バルチック艦隊技術将校,ポリトゥスキーの日記

11月12日

朝8時,いまダカールに着いた。艦隊はみな錨を降ろした。市街は,一部は海岸に位置し,一部は一小島嶼にある。
今日は我が提督の誕生日である。祝賀のご馳走が出るということである。非常に息苦しく暑い。汗は注ぐように流れ,空気は湿って手拭いは乾かない。

午後2時,用事があってナヒモフに赴いた。同艦において,学校以来の友人である一人の技師に会った。ナヒモフで朝飯を食べた。我が艦では祝賀の朝餐があったのであるが,私は列席できなかった。この祝宴にはアリョールから提督の親戚である一人の看護婦が列席した。
提督は,貯蓄石炭のすべてを積み込んだ後に陸に上ることを許可した。11月16日の夜までここに碇泊する。諸艦ではみな石炭の積み込みを始めたが,我が艦だけは積み込みを始めていない。艦の周辺には小舟に乗って黒人が漕ぎ回っている。海水に銀貨を投じて与えると,彼らは巧みにこれをとる。彼らの衣服は,腰の周りに非常に細い布をまとっているだけで,真っ裸である。彼らは真っ黒で,手足は比較的長く,しかも細く,はなはだ見苦しい。私は彼らを見て,一種病弱の者に対するような悪感に打たれた。
オスラービアがタンジールに到着したとき,ジブラルタルから石炭を運んで積み込むために,はしけとかごを調達しようとしたが,英国人は故意に自らはしけを雇い,かごを買い占めてしまったため,オスラービアはひとつも得ることができなかった。

夜5時,フランス派遣の当港駐在知事が厳然たる態度で来て,石炭積み込みを許可しない旨を通告した。しかし提督は,これに応えてヨーロッパからの電報がくるまでは,とにかく積み込むと告げた。
他の諸艦は積み込みに着手していたが,我が艦はいま始めたばかりである。県知事からは,我が艦隊がここに碇泊することを許可しないと言ってくることもあるかもしれない。これは,実に我々にとっては非常に意外なことである。思うに,満州における我が軍の結果が思わしくないのかもしれない――そのためにフランス人もこのような冷淡な態度にでたのかもしれない。我々は,まだ何ら確たる情報に接していない。
郵便局に行ったついでに,22回目の書簡を大急ぎで投函した。ここは電報料が非常に高い。ダカールとヨーロッパをつなぐ海底電線のどこかに故障を生じ,電報は一度米国に発信し,米国からさらにヨーロッパに伝えるのである。

当地でのうわさによれば,ステッセルは脚部を負傷したとのことである。

最初は,フランス人は石炭の積み込みを許したのだが,その後,パリから我が艦隊を碇泊場に入れてはならないという命令が来たという。それに頓着なく,我が艦隊は投錨し続けて石炭を積み込んだ。私たちは石炭の粉塵を防ぐために,扉も明り窓もみな閉じた。船内は恐ろしいほどの悪臭である。渇きに苦しめられた。飲料はみな温かくなって,非常にまずくなった。しかし飲んで飲んで,限りなく飲んだ。
今日,私はリモナーデを6瓶買った。
艦隊での話は石炭の事で持ちきりであった。私たちにとっての大問題だからである。今後の航海も,私たちの成功如何も,すべて石炭に掛かっている。水兵に石炭の積み込みを急がせるために奨励法を設け,もっとも速く積み込んだ者に賞金を与えている。明けても暮れても石炭の話で歯が浮くようであるが,やはり,みな石炭のことを話し合っている。

2005/11/12 in  | posted by gen

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