バルチック艦隊技術将校,ポリトゥスキーの日記

11月26日

ここに一場の諧謔が演出された。私たちは朝から投錨して止まっていたが,この地に来てとどまっていても,どこにいるのかがわからない。ガボンがどこかを知らないのである。ローランドを西の方にある海岸に航行させ,灯台とガボンとを尋ねさせた。海岸を眺望し得たかどうかもわからない。誰か,ここですでに鮫をみたという者もいた。
ダカールで艦隊が抜錨した際,病院船アリョールは一艘の脚艇に何か重要な書類(大方は郵便物)を持たせてスワロフに来させた。抜錨を急いだために,本艦はついにその書類を受け取れずに出航した。
航海長も艦長もみな赤面した。すでにガボンを30マイルも通り超していたことを知ったのである。いま引き返してガボンの方向に逆航する。このことによって我々は赤道を2回も通過することになった。赤道祭は,通常一回目の通過時に行なうのが当然である。我々は喜望峰に風浪を避けるために赤道を三度も通過することになる。
夜6時,私たちはすでに投錨した。いま我が艦隊にフランスの脚艇が一隻来航し,何かの公報を持ってきた。同艇は我が艇に接近して急に沈没しそうになった――我が艦尾の渦巻く波の中に入ってしまったのである。しかし何事もなく無事で,わずかにその舵を損傷した程度で済んだ。
フランスの士官は提督と午餐をともにした。戦地の状況に関してフランスの士官は知らなかった。ガボンでは通信員の電報を受けられないとのことであった。これでも都会である。このような都会は植民地にはたいへん多い。我がロシアにおいては,まさかそのような都会はないと思うが。ここでは知事でさえ電報を受けることがないという。
ここに住んでいるヨーロッパ人は700人ぐらいである。その他は黒人であるが,彼らの間には食肉人種もおり,この最近2ヶ月間で食人種は4名のヨーロッパ人を食べてしまったということだ。
うわさでは,明日,英国汽船が一隻入港するらしい。同船は露暦の10月27日以来の新聞を登載してくるという。29日または30日にヨーロッパに向けて当地から汽船が出航するので,私たちが差し出す手紙類もこの汽船で送られることになる。
戦地からは戦況の情報は何もないため,スワロフの士官一同はノーオエウレミヤ通信社に返信料込みの電報を送って戦況を聞き出そうとして,提督にその許可を願い出た。提督はそれを許さなかったが,その電報をウイレニウス提督に発信して,同提督から我々に極東の状況を伝えられることとなった。
ペテルスブルクから電報が到着した。それによれば,我々の提督にその艦隊をガボン附近に碇泊させず,どこか別の場所に碇泊すべきであると言ってきた。フランス人も同様に,我が艦隊に対して別の利便性のよい湾の所在を示し,かつ水先案内を与えると約束した。しかし我が艦隊はそれに頓着せず,必要とするだけここに碇泊した。
あのドイツ海のハル附近での汽船砲撃事件がどのように決着したかが,さいきん明らかになった。それによれば,この事件の際,アウローラスワロフを砲撃したらしい。しかし一発も命中しなかった。我が艦は幸運であった。
当地に住むヨーロッパ人がびっくりしたといって,次のような話をする者がいた。我が艦隊がここに着く3日前に汽船が一隻来泊した。この来泊の目的を尋ねたところ,食料買い入れのためだとのことであった。さらに二隻の汽船が来港したので,その目的を尋ねたところ,いずれの船も食料を得るためだと答えた。それからまもなく我が艦隊が揃って来港したのであるが,先に汽船が来泊した理由も,なるほどと解されたという。
当地では,極東来航のロシア艦隊がガボンに来泊することは夢想もしなかったことであった。我々の艦隊のうわさもときどき聞こえないわけではなく,また我々にとって必ずしも利益になるとはいえないパリからの命令も,この地方の領地の官憲の耳にはなかなか入らないのは,むしろ我々にとっては好ましいことと言える。

2005/11/26 in  | posted by gen

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