バルチック艦隊技術将校,ポリトゥスキーの日記

11月3日

今日,略式の奉神儀礼と感謝の祈祷があった。まだ宣誓をしていなかった3名の技師が宣誓を行った。その後,祝祭日なので士官ならびに水兵は甲板上に整列した。提督は陛下の即位10年の記念について乗員に向かって簡単な演説を行い,祝杯を挙げ,乗員は万歳を唱え,そして楽隊は祝譜を演奏した。終わってから士官室で祝賀の朝餐が設けられた。
いまモロッコのタンジールの停泊場にいる。この市街は私たちがヨーロッパで見る市街とはまったく趣を異にしている。同市街は黒人,アラビア人などが住んでいる。ヨーロッパ人もいるが,みな市街の郊外に住み,その白亜の家屋はなだらかな丘陵につづく海岸に広く点在している。市街を遠く眺望すれば,その風景は絶景である。
誰も,上陸は許されなかった。
あなたは,ある日の新聞にひとりのモロッコの盗賊が米国人を捕らえ,金との交換を要求したことが書かれていたのを記憶していると思う。この盗賊先生はタンジールから25露里(長村注:ロシアにおける距離の単位。1露里は1067mに相当する。)のところに住み,そのとき米国人から奪った金でたいへん立派な別荘を建てた。この者はいまでも盗賊を業とし,その同類が800人もいるという。
だれも市街の外に遠く行くことをしたがらないらしいが,奇態な風習である。本当だろうか。
私たちは3時にここに来て,駆逐隊を除くほかは我が全艦隊が投錨した。ここには数隻のフランス汽船と英国船一隻が碇泊している。
5時ごろにタンジールに他の汽船――病院船アリョールも到着した。同船は白色に塗り,その煙突に赤十字を描いてあり,檣頭にも赤十字旗を掲げている。先日の砲撃事件によって負傷した8名の中のひとり,アウローラの牧師は壊血症のため亡くなった。
英国のグーリに,いま日本の水雷艇が碇泊しているとの通信が入った。思うに,我が艦隊を襲撃しようとした者の一部であろう。
いま碇泊場には船舶が輻輳している。我が全艦隊はその運送船を率いてことごとく投錨し,またそのほかに我が艦隊に石炭を供給する私立汽船会社の多くの石炭船も碇泊している。
風説によれば,ロシアではすでに数隻の巡洋艦を購買し,これらの諸艦もまもなく到着して我が艦隊に合流するとのことである。たいへん結構なことである。
我が各戦闘艦はみな石炭の積み込みを始めた。全艦の繁忙と元気とは格別である。他艦と競争して,もっとも早く石炭の積み込みを終えた艦の水兵には賞金を与えるという規定が設けられたのである。先般の石炭積み込みのときには,アレキサンドルの乗員が1,200ルーブリの賞金を手にした。
戦地からは例のとおり,さらに新しい情報は入らず。
昨日は旅順において最悪の日となった。すなわち,日本軍は皇帝誕生の日に旅順に日の丸の旗を立てようとしたのである(長村注:このまま読むと,皇帝ニコライ二世の誕生日とも読めるが,実際の誕生日は1968年5月18日である。これは誕生日をさすのではなく,即位の日という意味で,ニコライ二世は1894年11月1日に即位した。ただし日本軍の旅順攻撃は,その前日の10月31日に乃木司令官が撤退を命じて不成功に終わっている。)
スワロフが投錨するとすぐに四方八方から,汽船や端艇を飛ばして諸艦の艦長,その他将校たちが続々来訪した。陸上からは,この地の地方官,我が国の領事,請負商人や外国軍艦の艦長なども来訪した。一言で言えば,あたかも演劇の開場前に群集が押し寄せるように,すべての人々がスワロフに急ぎ来たのである。我が戦艦からは殷々たる礼砲が響き,各種の旗を掲げ,楽隊の演奏があった。他の諸艦や陸上からもスワロフに対して礼砲を放った。活気が充満している。
地方住民の衣服は,はなはだ美麗で,あたかも仮面舞踏の服装のようである。ある者はゆったりしたズボンに短い上着を着て青い房のついた赤のトルコ帽を被り,その服の色もさまざまである。顔は誰を見てもみな黒い。風采は尊大である。このような人々を市中に見るのは非常に面白い。
我が駆逐隊は,この地からすでに地中海に向かった。彼らはその長旅の航海を11月1日に始めた。
夜,英字新聞ジブラルタル報知にアレキシーフが出発するという報道を載せた。また同紙上にステッセルが旅順をその墳墓とすると言って打電してきたことを記していた。
この(石炭積み込みの)光景をあなたにも見せたいものである。石炭積み込みのために上甲板において全員に非常召集があり,四方は真っ黒で諸汽船と戦闘艦とは電灯に照らされ,船倉内も甲板の上も,人々が右往左往しながら走り回っている。起重機は頻繁に動き,水兵の切れ切れの言葉(が聞こえる)。楽隊は愉快な調子で水兵の働きを励ます音楽を演奏している。音楽に合わせての働きはもっとも速くなるものである。
モロッコはフランスの保護国ではあるが,ここには英国・ドイツの郵便局がある。もしかしたらスペインのものもあるかもしれない。

私はいま,汽船パルラス号から帰ってきた。この汽船は我が艦隊に石炭を積み込むために来て,その積み込みの際に舷縁を破損したのである。
戦闘艦にはいろいろな商人が来て,絵はがき,ゴザ類,編み物,白靴,ヘルメットなどを売っていた。ヘルメット(これは英国人が熱帯地方でつねに用いる帽子)はすでに買った。はがきは6組も買ったが,あまり必要でもないので,その中のひとつを従卒に与えた。彼は大いに喜んでいた。適当な靴はなかったが,熱帯地方では白靴は必要なものである。
いまスワロフに我が領事館付のカワヤス(トルコの憲兵)が来訪した。顔は黒く,赤いトルコ帽に婦人服のような長いズボンを履き,素足に黄色の上靴を履いた,極めて奇態な服装である。彼はここに,私たちの出帆までいて郵便物を集めた。彼を乗せてきた汽船に100フランクを払わなければならない。安くはない船賃である。
いまから戦闘艦アリョールに行かなければならない。同艦に何事かが起こったようなのである。
ああ,濡れてしまった。膝まで濡れた。汽艇で会社の社長を尋ねてすべての石炭船を訪れた後,アリョールに赴く。雨は,まさにバケツをひっくり返したような大雨で,近くの船舶も幕で隠したように何も見えないほどの降りようである。雨は降り注ぎ,汽艇から雨水を汲み出すテントは漏り,非常に大変であった。私の身体に雨菌が発生しなかったことだけでも幸いであった。

いまから汽船エスペランスに行かなければならない。同船の錨になにか異常が起きたようである。しかし,もしかしたら行かなくても済むかもしれない。
夜7時,ついに行かざるを得なくなったため,エスペランス号に赴いた。深い靴を履いたが雨は止んだ。

この地の新聞に,旅順の我が軍艦が,またも滅亡したという報道がなされた。真偽のほどはどうであろうか。また当地の新聞には次のような説が掲げられた。我が艦隊の提督は英国人と談判中に,英国人が我が支隊のビゴ出発を許さなかったので英国人を殴打し,ついに戦争になった。その砲撃を聞いたものは多い。英国人は爆破された,云々。これをみれば,当地の新聞には虚報が多いことがわかる。
タンジールからダカールに向かう。

2005/11/03 in  | posted by gen

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