バルチック艦隊技術将校,ポリトゥスキーの日記

11月30日

夜7時,ローランドで上陸したが30分前に陸地から帰艦した。非常に疲れた。

私たちはローランドで今朝8時にリプレウィールに上陸し,10時ごろに市街に着いた。しかし市街というのも名前だけであって,私たちの汽船は海岸に十分接近して碇泊することができず,端艇で上陸した。私はボロジノの将校たちと行動をともにして,ずっと彼らと散歩した。
はじめ,私たちは食事をしようとして料理店に入った。全部で6名であったが,私たちの食卓に運ばれてきたのはレモナード6壜,食餅,魚類,牛肉,大豆,小鳥,果実などで55フランをとられた。
料理店を出て,棕櫚の並木道を通って市街に出,ドイツ人の商店や天主教の会堂,二,三の村,植物栽培場などを訪れたが,時間が短く,すぐに帰途に就いた。土人の王のところと商店とに立ち寄って埠頭に戻り,ローランドに乗り込んだ。
陸地にいたのはわずか5時間に過ぎなかったが,ずいぶん疲れた。いつも運動していないせいであろう。一緒に行った者たちと二,三個所で写真を撮った。私たちはまた,フランス軍隊に勤務している黒人部落の婦人と植物栽培場の木陰で小さなテーブルを囲み,その子どもたちと一緒に写真を撮った。
この地の王の家に行ったが,そのとき王は食事中であった。後に出てきて自ら客に椅子を勧め,自分は安楽椅子に座った。王も王の家族もみな衣服を纏っていた。身体に草を下げ,仮面のように顔に彩色した黒人が粗野な楽器を奏しながらそこら中を踊った。時間がなくなり,私たちは立ち上がると王も立って握手を交わした。
王の宮殿には多くの将校たちが集まっていて,彼らは遠慮もなくその邸内を歩き回った。寡婦である女王は椅子にもたれていたが,少し酔っていて,我々の士官に対してフランス貨を恵んで欲しいとまじめに頼んでいた。
植物栽培場を散歩し,アナナス,バナナ,椰子の実などをたくさん買った。私たちがテーブルを囲んでバナナやレモン,アナナスなどを食べた植物栽培場はこの地で生まれたひとりのフランス夫人の所有になるものだという。私たちは,この家が料理店だと思って屋敷や家中を遠慮もせずに歩き回り,レモナードやその他の飲み物を注文したのだが,そこは料理店ではなく,一私人の邸宅であったことを後で知った。当家の女主人であるフランス婦人ははなはだ愛嬌があり,自分の身の上や現在フランスで教育を受けさせている娘の話などを語った。この婦人は,私たちが買った物を二人の黒人に持たせ,埠頭まで送ってくれた。
この土地一帯がいろいろな植物に恵まれていて,実に植物園の中を歩くような感じである。周囲はみな棕櫚の木,芭蕉,レモン,ねむの木,ツタ,芒果,その他バオバブ(200~600年ぐらいの寿命がある大木で,一名アンダーソン樹)という大木や数知れない花木で満ちている。これらの木々はみな枝葉が繁り,暗くなるほどに天を覆っている。しかも樹木はみな巨大である。
帰途,私たちはのどを潤すために小さな店に立ち寄ったところ,りんご酒をだされた。このように私たちは,およそ飲み物で飲まなかったものはない。
私たちは市中で売っているゴミのような粗品を多く買った。黒人の楽器,猛獣の歯で作った投槍,その他の武器類,また骨細工などである。
途中からアレキサンドルで連れてきた黒人に会った。彼はいま,私たちの間でロシア式の名前であるアンドレイ,アンドレイチと呼ばれている。

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11月29日

前便の書面はまだ書き終えていないが,汽艇は陸に向けて出帆した。この汽艇で送られた最後の郵便物は明朝にヨーロッパに向けて出帆する汽船に間に合うはずである。
提督は艦船と陸上の間の交通を日没後から明け方までは禁止にした。昨夜10ごろに,提督の特別の許可を得ないで出船したドンスコイの脚艇を碇泊場で拿捕した。このために当直の将校は3日の禁固に処せられた。そして今夜もまた,碇泊場で提督の許可を得ない3名の士官が乗り込んだ端艇を拿捕した。
本日の命令書で,ドンスコイの艦長に対する宣告が公になった。また3名の士官は軍法会議にかけられることになり,彼ら士官は明日ヨーロッパに向けて出帆する汽船に移乗させ,ロシアに護送させられる。艦隊がいかに厳重に犯則者を処分するかがわかる。

夜9時,今日アレキサンドルの水先案内は,同艦乗組員がデカルから誘拐してきた黒人のことを話した。この黒人が乗ってきた脚艇がアレキサンドルの舷側を離れたとき,この黒人は大いに怒り,猛り狂って小舟のことを罵り,さらに裸足で甲板の上を踏みならし乗員を拳固で威嚇するなどの騒ぎを起こした。アレキサンドルがすでに錨を上げて動き始め,到底同艦から逃れられないことを悟ると,この黒人は砲塔の傍らに座って,今度は熱涙を注いで泣き出した。乗員は黒人の周囲を取り囲み,この頑健な青年があたかも猛獣が吼えるように泣いているのを笑いながら見ていた。その後,彼は何もされないことを知って安心したようであるが,嫉妬深い性質とみえて,ずっと妻のことを心配していた。乗員はすぐにこの黒人と親しくなって,いくつかのロシア語を教えた。記憶力はなかなかよく,数日間で乗員の半数の名前を覚えてしまった。
乗組員がもっとも珍しいと思ったのは黒人の足の裏の白さである。黒人の足裏は概して白い。水兵などは,これを面白く感じたのである。
将校たちは,この黒人に帰りの旅費として60ルーブリを集めた。彼は非常に喜んだ。この黒人はある商店に勤めているとのことで多少は開化している。彼はフランス語を自由に話すことができる。

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11月28日

今夜雷雨あり。激しい雷鳴が轟いたというが,私は熟睡していて知らなかった。今朝9時,上陸した士官たちはリブレウィールから帰艦し,多くの面白い話を持ってきた。
彼らは植物が豊富なのに驚いていた。果実とオウム二羽を携えて帰ってきたが,一羽は10フランで買い,もう一羽はカトリックの司祭から進物として果実とともに提督に贈られたものだという。
過日,金を与えた官吏が親切に我々の将校たちを案内した。彼が我々と別れて帰る際に,前日のようなことをされては困ると思い,何度も「何もしてくれるに及ばない」と繰り返していた。
我が将校たちはその地の王を訪問,王は英国の海軍服に三角帽をかぶって将校たちを謁見した。その妃にも面会し,王と妃とともに記念写真を撮った。だれかは,過日フランス貨を欲しいと言ってきた寡婦の女王と腕を組んで写真を撮った者もいた。王の女官の中には酒に酔っている者もいた。その王は72歳になるそうであるが,その長兄が亡くなったので,その後を継いで王位に就き,今日で二日目だという。
第一の女官はマルガリータといい,老いた黒人で,なかなか精悍な婦人である。彼女は裸足で駆け歩いていた。ただし,ここの住民は概して布の衣装を纏っている。ヨーロッパ人に対してはよく礼を重んじている。
リブレウィール市の概況はおおむねわかってきた。知事は我が提督にさいきん到着した新聞を送ってきたが,この新聞は我々がリバウを出航した当日の10月2日発行のものであった。

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11月27日朝11時

今日はすでにアリョールアレキサンドルの両戦闘艦を訪ねた。2時ごろにナヒモフボロジノメテオルなどに行かなければならなくなった。いずれも故障したり浸水したとのことである。
アレキサンドルの艦内に,ダカールから偶然のことで一人の黒人を連れてきており,この黒人を当地に上陸させた。その黒人によれば,この地の黒人は死人の肉を食するという。これは家畜類に乏しく,獣肉が高価なためだとのことである。死人の肉を食べる前に,その死体の手足を切り取って数日のあいだ沼地などに放置し,それが腫脹するのを待ってから食べるのだそうである。そうすることによって人肉が柔らかくなるという。
この地の海水には潜水夫が入ることができない。鮫がたくさんいるからである。
当地の県知事から進物として野菜果物が贈られた。朝飯にはマンゴー,アナナス,バナナ,その他の珍しい果物が私たちの食膳に上った。そのなかでもとくにうまかったのがアナナスである。
知事がたくさんくれた果物の中には,だれもまったく名前を知らず――それが野菜なのか果物なのかの見分けがつかないものがあったのは少しおかしかった。
一隻の運送船はハンブルグからの私信電報を受け取った。クロパトキンが日本軍を海岸に撃退圧迫したということであった。はなはだ愉快な話ではあるが信じがたい。
夜11時,上陸した人たちの話では,この土地は非常に植物が多く,植物園のようで,また動物もたいへん多いという。私たちの軍艦に非常に大きな蝶が飛んできたのだが,その大きさはウソかと思うほどであって,実に一尺五寸もあった。フランス人は,海岸で二丈ぐらいの死んだ大蛇を見せていた。
我が士官たちはこの土地の王を訪問したが,王は昼寝の最中であった。しかし遠慮もせずに彼を起し,その妻にも面会した。王もその臣下同様の黒人である。

面白いことがあった。先にも記したように,知事が私たちに進物を贈ってきたが,この中の野菜を持ってきた官吏に,お礼として心ばかりに一,二の銀貨を与えたところ彼はこれを受け取った。その後,その金をどこにやったのかはわからないが,たぶん我々の負傷兵に寄付したようだ。

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11月26日

ここに一場の諧謔が演出された。私たちは朝から投錨して止まっていたが,この地に来てとどまっていても,どこにいるのかがわからない。ガボンがどこかを知らないのである。ローランドを西の方にある海岸に航行させ,灯台とガボンとを尋ねさせた。海岸を眺望し得たかどうかもわからない。誰か,ここですでに鮫をみたという者もいた。
ダカールで艦隊が抜錨した際,病院船アリョールは一艘の脚艇に何か重要な書類(大方は郵便物)を持たせてスワロフに来させた。抜錨を急いだために,本艦はついにその書類を受け取れずに出航した。
航海長も艦長もみな赤面した。すでにガボンを30マイルも通り超していたことを知ったのである。いま引き返してガボンの方向に逆航する。このことによって我々は赤道を2回も通過することになった。赤道祭は,通常一回目の通過時に行なうのが当然である。我々は喜望峰に風浪を避けるために赤道を三度も通過することになる。
夜6時,私たちはすでに投錨した。いま我が艦隊にフランスの脚艇が一隻来航し,何かの公報を持ってきた。同艇は我が艇に接近して急に沈没しそうになった――我が艦尾の渦巻く波の中に入ってしまったのである。しかし何事もなく無事で,わずかにその舵を損傷した程度で済んだ。
フランスの士官は提督と午餐をともにした。戦地の状況に関してフランスの士官は知らなかった。ガボンでは通信員の電報を受けられないとのことであった。これでも都会である。このような都会は植民地にはたいへん多い。我がロシアにおいては,まさかそのような都会はないと思うが。ここでは知事でさえ電報を受けることがないという。
ここに住んでいるヨーロッパ人は700人ぐらいである。その他は黒人であるが,彼らの間には食肉人種もおり,この最近2ヶ月間で食人種は4名のヨーロッパ人を食べてしまったということだ。
うわさでは,明日,英国汽船が一隻入港するらしい。同船は露暦の10月27日以来の新聞を登載してくるという。29日または30日にヨーロッパに向けて当地から汽船が出航するので,私たちが差し出す手紙類もこの汽船で送られることになる。
戦地からは戦況の情報は何もないため,スワロフの士官一同はノーオエウレミヤ通信社に返信料込みの電報を送って戦況を聞き出そうとして,提督にその許可を願い出た。提督はそれを許さなかったが,その電報をウイレニウス提督に発信して,同提督から我々に極東の状況を伝えられることとなった。
ペテルスブルクから電報が到着した。それによれば,我々の提督にその艦隊をガボン附近に碇泊させず,どこか別の場所に碇泊すべきであると言ってきた。フランス人も同様に,我が艦隊に対して別の利便性のよい湾の所在を示し,かつ水先案内を与えると約束した。しかし我が艦隊はそれに頓着せず,必要とするだけここに碇泊した。
あのドイツ海のハル附近での汽船砲撃事件がどのように決着したかが,さいきん明らかになった。それによれば,この事件の際,アウローラスワロフを砲撃したらしい。しかし一発も命中しなかった。我が艦は幸運であった。
当地に住むヨーロッパ人がびっくりしたといって,次のような話をする者がいた。我が艦隊がここに着く3日前に汽船が一隻来泊した。この来泊の目的を尋ねたところ,食料買い入れのためだとのことであった。さらに二隻の汽船が来港したので,その目的を尋ねたところ,いずれの船も食料を得るためだと答えた。それからまもなく我が艦隊が揃って来港したのであるが,先に汽船が来泊した理由も,なるほどと解されたという。
当地では,極東来航のロシア艦隊がガボンに来泊することは夢想もしなかったことであった。我々の艦隊のうわさもときどき聞こえないわけではなく,また我々にとって必ずしも利益になるとはいえないパリからの命令も,この地方の領地の官憲の耳にはなかなか入らないのは,むしろ我々にとっては好ましいことと言える。

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11月22日

ローランドは,まだマライヤを曳航している。マライヤから一切の積載物を他に転載した上で同船を帰してしまう方がはるかに得策である。このようにすれば妨げもなくなり,種々の配慮も減ることになる。
今日の朝飯のときに,提督はカムチャツカが列外に出て信号を掲げ,「自艦に著しい破損が生じ,操縦不能になった」との連絡があった旨の報告を受けた。しかし幸いにも,破損個所はそう大きくはならず,同艦はすでに隊列に復帰した。
もし私たちがウラジオに到着するまでの航海中に幾度,温度変化に遭遇するであろう。ロシア出航時には冷気の中であったが,次第に温暖になり,たちまちのうちに灼熱となって,また再び涼しくなり,その後また灼熱となった後は次第に涼しくなるだけで,ウラジオに到着するころにはすでに冬になっているはずである。

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11月21日夜11時

日が没すると数々の事故が生じた。8時からいままで艦隊は停止していたのであるが,いまわずかに5ノットの速度で進んでいる。またも不幸なマライヤのために進行が妨げられているのである。機関が損傷し,どこかのポンプが止まってしまったという。私はマライヤについてはとくに恐れている。同艦はダカールで浸水を来たし,私は,同艦はその自らのポンプによって動きながら安全に航行できなければならないことを証明して上申した。いま,そのポンプが破損したと仮定すれば(同艦にはポンプが1台なので),同艦の浸水を止める手段がなくなってしまう。もちろん近くにはドックもない。
いまのところローランドマライヤを曳航している。マライヤのひとつの機関に損傷を生じ,他の機関の推進器の端を折ってしまったからである。つまりマライヤは独力では航行できないのである。
ガボンまでは,まだかなりあるのに,またも大きな障害である。しかし海上が静穏なのがせめてもの幸いである。もし暴風雨にでも遭っていたらマライヤの運命はすこぶる危険である。静穏な天候の中でさえ,ローランドは長時間をかけ,非常な困難の中でやっとマライヤに曳綱をつけることができたのである。1本の綱を切ってしまい,他の1本で代用した。

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11月17日

昨夜は早く,11時には床についた。明かり窓を開けたまま寝たため,今朝早く甲板洗浄の際に,その明かり窓から水が流れ込んで机を濡らし,私自身も少し頭から水をかぶってしまった。急いで起きて窓を閉じた。
昨夜,舵機操縦のある実地試験をするためにスワロフから他艦に移乗した。
スワロフアリョールは,ちょっとしたことで衝突を免れた。このとき全艦隊が集合していたが,何事もなかったことは幸いであった。
夜8時。将校たちはダカールで種々の小鳥20羽を買ったが,かれらは餌を買うことをしなかったので,手当たり次第にいろいろな餌をやっていた。しかし小鳥は次々に死んでいった。

楽隊は常に祝祭日の朝飯のときだけ演奏しているのであるが,今日は突然,午餐のときにも演奏を始めた。これはたぶん退屈のために思いついたことなのであろう。午餐でも朝飯でも,食べるより飲む者が多い。なんでも飲まないものはない。普通の水はもちろん,鉱泉,赤白のぶどう酒,ビール,各種のレモン水など,何でも飲む。これは暑さのためである。暑さにいちばん苦しんでいるのは提督である。石炭積み込みの際には扉も窓もことごとく閉じていたので,提督の部屋は50度にもなった。私の部屋は,いま明かり窓を開け,通風機で新鮮な空気を流しているのであるが,それでも27度もある。
ある将校がゴザを買い求めたのだが,ある者はこのゴザを士官室に敷いて寝,ある者は応接室に寝,艦長は上甲板に寝た。

今夜,運送船マライヤの機関に何か故障が起きた。全艦長は航進を止めて同船を待った。朝4時ごろのドンスコイからの報告によれば,キングストンに土砂が侵入したらしい。これは同船が砂洲の上を通過したからである。艦隊は陸から90露里の海上を航行しているのであるが,ドンスコイのこの事件以来,さらに陸から離れた海洋に出た。

今日は実に暑い日であった。私の部屋の暑さは,床板の焼ける暑さが靴底からも感じられるほどであることからも推測できるであろう。
夜7時,ああ暑い。波飛沫が入るので,明かり窓はまだ閉めておかねばならないのである。

ボロジノがひとつの機関に損傷を生じた。全艦隊が停止して同艦を待った。いまボロジノは,もうひとつの機関で航行している。
我が艦隊から離れたところで3個所に雷雨を見つけた。黒雲が天を覆い,稲妻が走っている。非常に暑苦しい。

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11月16日

ダカールにいる。
今日は朝から各艦を巡訪した。ドンスコイオスラービアアレキサンドルボロジノなどである。
3時ごろに抜錨したが,私たちはガボンに向かうかどうかは,まだはっきりしない。旅順における11月2日の攻撃は,日本軍が多くの損害を受けて撃退されたとの噂が当地で流れている。

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11月15日

5時,コーヒー店に入ってリモナーデを飲んだ。ここにあなたが一笑に付す話がある。コーヒー店で私は何か食事を摂ろうと思い,黒人のボーイに料理のメニューを持ってくるように命じたのに,彼は絵はがきや象牙細工,羅紗に包んだ板などを持ってきたのである。

市中では何もすることがない。この後に出る最初の汽艇で本艦に帰ることとする。いま弔砲の音が聞こえた。ネリドフ氏の葬儀だろう。

陸上から7時発の汽艇で帰艦した。
我が艦の軍医ナデイン氏は奇妙な人で,上陸の際に何の木かの実をもぎとって食べたのだが,本艦に帰ると腹痛を起こし嘔吐した。
ここにもやはり日本人がいた。たぶん二人である。将校の中に彼を見たという者がいたが,彼らはもちろん間諜であろう。
明日は出航である。ただし朝早くドンスコイに赴かざるを得ない。郵便を出すまで,まだ2,3語を付け加えようと思って帰艦し,ようやくのことで間に合った。
次の航路は長い。約10日を要するとのことである。私はダカールの街を歩きながらも絶えずあなたのことだけを想っていた。もしあなたがここにいたら,この黒人や黒人の婦人と子ども,またはここに住んでいるヨーロッパ人などの見慣れない風俗光景を,きっとあなたは面白がって見物するだろう。
ここは万事が異様である。子どもは素っ裸で市街を走り回って遊んでいる。土人はみなお守りを掛けている。彼らの多くは破廉恥者であると同時に怠惰である。一人の黒人は艦長の許にお金を乞いに来たが,艦長は彼に向かって「あなたは何も働かないからお金が持てないのだ」と言ったところ,黒人は「貴殿はこんなにもたくさんの金銭を持っているのに,どうしてさらに働こうとするのか」と言った。
当地に住んでいるヨーロッパ人はいたって少ない。とくに年老いたヨーロッパ人を見るのは稀である。これは壮年時に少しの間ここに住んでも,多くはこの植民地から帰国するためである。
噂によれば,この地方ははなはだ季候が悪く,猩紅熱も流行するという。果物を買うことができない理由も,あなたは想像できるだろう。
海の中にお金を投じて,黒人に泳いでとらせたロシア貨幣も,この土地では通用しないことが分ると,彼らは我が士官たちと街の中で両替をした。この土地の多くの人は非常にきれいな長いズボンを履いている。白か色染めである。黒人は洋傘を差しているが,みな裸足で歩いている。黒人の婦人は,婦人用のガウンに似た着物やヨーロッパ人用の帽子を被っている。小さい子どもは背中におぶっている。
ここではアラビア人を見かけることもある。住民の宗教はローマカトリックが一部,マホメット教が一部,偶像教が一部である。
市中の貿易は汽船入港の日に営まれるので,そのときには多くは物価が2倍ぐらいに高騰し,品物によってはまったく売り切れてしまって買えないものもでてくる。当地の郵便局は一種異風である。官吏の黒人は室内に座り,人々は街から直接,台のようにでている窓のところに来て用件を済ますのである。

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11月14日

私は,昨夜出張した運送船マライヤから,さきほど帰艦したばかりである。マライヤは水線下に破損を生じたのである。
今日の午後3時ごろにネリドフ大尉が急病で亡くなった。氏は,パリ駐在の我が国大使の令息である。氏は非常に語学が達者で7,8カ国語に通じていた。明日が葬儀である。
将校は陸岸から帰艦した。その話によれば陸上には別に珍しいものはないとのことである。もしできれば,私も上陸してみたい。今日は非常に疲れた。

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11月13日

(長村注:原典では11月12日付けとなっているが,前日の日記内容と比較して,同日付とは考えにくく,ここでは13日の日記として扱うことにした)

今日は朝から湾内の碇泊所を巡航した。艦内は士官室も戸棚も食卓も,すべて石炭の塵煙がかかっていないところはない。石炭の積み込みによって甲板の上に起こる塵煙は,いぜん雲霧が立ち昇るような状況である。乗員は一目みただけでは誰なのかが判別できないほどに真っ黒に汚れている。
ガボンには寄港しないという噂である。これはもっとも望むところである。一挙に航行する方がよい。ガボンはほとんど赤道直下にある地であり,その暑さがひどいのは当然である。
午後3時,今日は朝飯のときに氷菓子のご馳走が出た。氷菓子は,もちろんその名のように冷たいにもかかわらず,氷菓子から水蒸気が湯気のように立ち上っているのをみても,その暑さを察することができる。人々はみな,日射病に罹らないように注意している。
私たちは,とにかくここに水曜日,すなわち11月16日まで碇泊するようにとのことである。もしガボンに寄港せずに航海予定表にあるその次の港に直行するとすれば,その航海はなかなかの大航海になる。
提督は,当地の軍司令長官を訪問し,また,同司令長官を15日の朝餐に招待するようである。
いま,ドンスコイ(長村注:ドミトリー・ドンスコイ。装甲巡洋艦。)から特別に来艦の要求があった。

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11月12日

朝8時,いまダカールに着いた。艦隊はみな錨を降ろした。市街は,一部は海岸に位置し,一部は一小島嶼にある。
今日は我が提督の誕生日である。祝賀のご馳走が出るということである。非常に息苦しく暑い。汗は注ぐように流れ,空気は湿って手拭いは乾かない。

午後2時,用事があってナヒモフに赴いた。同艦において,学校以来の友人である一人の技師に会った。ナヒモフで朝飯を食べた。我が艦では祝賀の朝餐があったのであるが,私は列席できなかった。この祝宴にはアリョールから提督の親戚である一人の看護婦が列席した。
提督は,貯蓄石炭のすべてを積み込んだ後に陸に上ることを許可した。11月16日の夜までここに碇泊する。諸艦ではみな石炭の積み込みを始めたが,我が艦だけは積み込みを始めていない。艦の周辺には小舟に乗って黒人が漕ぎ回っている。海水に銀貨を投じて与えると,彼らは巧みにこれをとる。彼らの衣服は,腰の周りに非常に細い布をまとっているだけで,真っ裸である。彼らは真っ黒で,手足は比較的長く,しかも細く,はなはだ見苦しい。私は彼らを見て,一種病弱の者に対するような悪感に打たれた。
オスラービアがタンジールに到着したとき,ジブラルタルから石炭を運んで積み込むために,はしけとかごを調達しようとしたが,英国人は故意に自らはしけを雇い,かごを買い占めてしまったため,オスラービアはひとつも得ることができなかった。

夜5時,フランス派遣の当港駐在知事が厳然たる態度で来て,石炭積み込みを許可しない旨を通告した。しかし提督は,これに応えてヨーロッパからの電報がくるまでは,とにかく積み込むと告げた。
他の諸艦は積み込みに着手していたが,我が艦はいま始めたばかりである。県知事からは,我が艦隊がここに碇泊することを許可しないと言ってくることもあるかもしれない。これは,実に我々にとっては非常に意外なことである。思うに,満州における我が軍の結果が思わしくないのかもしれない――そのためにフランス人もこのような冷淡な態度にでたのかもしれない。我々は,まだ何ら確たる情報に接していない。
郵便局に行ったついでに,22回目の書簡を大急ぎで投函した。ここは電報料が非常に高い。ダカールとヨーロッパをつなぐ海底電線のどこかに故障を生じ,電報は一度米国に発信し,米国からさらにヨーロッパに伝えるのである。

当地でのうわさによれば,ステッセルは脚部を負傷したとのことである。

最初は,フランス人は石炭の積み込みを許したのだが,その後,パリから我が艦隊を碇泊場に入れてはならないという命令が来たという。それに頓着なく,我が艦隊は投錨し続けて石炭を積み込んだ。私たちは石炭の粉塵を防ぐために,扉も明り窓もみな閉じた。船内は恐ろしいほどの悪臭である。渇きに苦しめられた。飲料はみな温かくなって,非常にまずくなった。しかし飲んで飲んで,限りなく飲んだ。
今日,私はリモナーデを6瓶買った。
艦隊での話は石炭の事で持ちきりであった。私たちにとっての大問題だからである。今後の航海も,私たちの成功如何も,すべて石炭に掛かっている。水兵に石炭の積み込みを急がせるために奨励法を設け,もっとも速く積み込んだ者に賞金を与えている。明けても暮れても石炭の話で歯が浮くようであるが,やはり,みな石炭のことを話し合っている。

2005/11/12 in  | Comment (0)

11月11日

今日はたいへん暑苦しい日である。汗が,あたかも水を注ぐように流れる。今夜はただ一個の十字架だけを身につけ,一枚の木綿の布を被って寝る。このような息苦しい夜にもかかわらず,船の明り窓を閉めて寝なければならない。これは,戦時には無用な灯火は消すか,またはそれを覆わなければならないからである。
ここでさえ,こんなに息苦しいのであれば,赤道のあたりに達したなら,実に地獄のようになるであろう。
空気は非常に水蒸気を含んでいる。机の箱は湿ってうまく開かなくなった。金属のものはすぐ錆がでてしまう。
室内では,つねに襦袢一枚でボタンをはずしている。実験者の言葉によれば,人々はみな熱帯地方の発疹に罹り,非常に痒いとのことである。熱帯でこのような発疹に罹るのは,暑さのために始終皮膚を刺激されるためだという。この暑さと息苦しさは,風がないだけに一層耐え難い。戦闘艦では絶えず換気機が動いている。すべての人たちは,みな眠い表情である。

夜9時,明日の朝ダカールに入港するために,さらに速度を緩めて航行している。たぶんダカールには数日間碇泊することになろう。同港で,我が艦隊に莫大な石炭――約2,000トンを積み込まなければならない。甲板は石炭で埋め尽くされることになろう。

2005/11/11 in  | Comment (0)

11月10日

私の従卒は私を信頼しているように見える。勤勉家で,また滑稽な者である。リバウ出航後まもなく,あなたが買ってくれた砂糖漬けの箱を見て私に向かい,「奥様はリバウにお出でになったのでございますか?」と聞いた。今日,彼は私の部屋に水桶とタワシをもってきて「お邪魔でも,床を掃除いたしましょう」と言った。
ダカールからガボンまでは楽な航行である。私たちはこの港に赴こうとしているが,この港の名前はまだ聞いたことがない。もしあるとすれば随分前のことであろう。実業学校または中学校のときに聞いたことがあるかもしれない。
あなたに送る写真の調製を軍艦の写真師に注文した。写真はあまりよくないが,ないよりましであろう。

2005/11/10 in  | Comment (0)

11月9日

夜7時。
今日の4時に夏至線(長村注:北回帰線。タンジールから,つぎの寄港地のダカールまでの半分強の道程で通過する。)に入り,これからまさに赤道に向かおうとしている。しかし特別に暑いことも,息苦しいこともない。
今日,不愉快なうわさを耳にした。すなわち我が艦隊は長くマダガスカル近傍に滞留し,さまざまな演習を行うというのである。はたして本当であろうか。このうわさは私として煩悶に耐えない。もし私たちがそこに長逗留するとすれば,ウラジオにはいつ着くのか。私は,このうわさが閑人の想像に終わってほしいことを祈る。

2005/11/09 in  | Comment (0)

11月8日

今夜1時ごろに運送船マライヤ号が,どうしたことか機関を故障した。全艦隊が止まって同艦の修繕を待ち,朝7時までそこに留まった。同時刻にマライヤ号の機関の修繕が終わったので前進を始めた。むなしく7時間もの間,いたずらに時間を費やしてしまったのは愚の骨頂である。いまの私にとって,実に一時千秋の思いである。
私たちは港に留まることが少ないので,できるだけ早く進み,ウラジオストクにその分だけ早く到着したい。一言で言えば,ウラジオは約束された地,希望の地である。

2005/11/08 in  | Comment (0)

11月7日

5日の朝,タンジールを出航し,いまダカールに向かっている。ダカールはアフリカ西岸にあって,セントルイ(長村注:St.Louis)およびベルデ岬(長村注:Cape Verde)からも遠くない地で,フランス領である。
あなたに二日間も書簡をしたためることができなかったのには,二つの原因がある。ひとつは大いに立腹していたこと,もうひとつはかなり忙しかったためである。タンジールであなたからの返事を得られなかったことに私はひどく怒った。昨日は深夜まで製図と計算に没頭し,休む暇もなかった。
タンジール抜錨の際にアナドルイ(長村注:このような名称の艦船は艦隊にいない。おそらく運送船のアナズイリのことであろう)の錨が海底電線に引っかかってしまった。このとき,提督の命令でカーベリ(原注:海底電線)を切断した。たぶんこのできごとによって,またも一場の外交談判が始まることだろう。英国人はかならず,カーベリの切断は我が艦隊がタンジールを出航することを誰も発信できないようにするために,故意に切断したというであろう。幸いにカーベリはフランスのものであるが,もしこれが英国のものであったとしたら,悪評は一層甚だしいものとなるだろう。
タンジールで一種独特の虹を見た。その虹は,一端は山の端から始まって,満天に広がっているものであった。
夜7時,やるべきことが非常に輻輳した。朝から始めて,いまも執務を続けている。たぶん,この図と書類を持って深夜まで座り続けることになろう。あなたはこの書簡をすぐには手にすることはできまい。後には,書簡を送ることも次第に稀になるものと思う。わたしたちはまもなく出航の港から到着の港まで17~18日間を要する,非常に長い航海をしなければならないからである。長い間,書簡が届かなくとも,けっして驚いてはいけない。また心配することもない。今度の航海では,むしろこれが常態なのである。
私が土に足をつけなくなってから,すでに23日になる。陸には少しも寄らずに,できるだけ早くウラジオストクに着くことを願うばかりである。
私は四辺のものにすべて飽きてしまい。吐き気を催すほどに嫌になった。人は太洋は美観というが,かならずしもそうではない。実に緑の水は美しくないことはないが,それは波が穏やかなときである。海が荒れているときはどうであろう。荒れる海は,あたかも愚かなる意味なく激怒する物質以外の何者でもない。海は美しくないとはいわないが,それは陸岸と相まっての眺めがよいのであって,ただ海だけでは,けっして愛すべきものではない。

2005/11/07 in  | Comment (0)

11月3日

今日,略式の奉神儀礼と感謝の祈祷があった。まだ宣誓をしていなかった3名の技師が宣誓を行った。その後,祝祭日なので士官ならびに水兵は甲板上に整列した。提督は陛下の即位10年の記念について乗員に向かって簡単な演説を行い,祝杯を挙げ,乗員は万歳を唱え,そして楽隊は祝譜を演奏した。終わってから士官室で祝賀の朝餐が設けられた。
いまモロッコのタンジールの停泊場にいる。この市街は私たちがヨーロッパで見る市街とはまったく趣を異にしている。同市街は黒人,アラビア人などが住んでいる。ヨーロッパ人もいるが,みな市街の郊外に住み,その白亜の家屋はなだらかな丘陵につづく海岸に広く点在している。市街を遠く眺望すれば,その風景は絶景である。
誰も,上陸は許されなかった。
あなたは,ある日の新聞にひとりのモロッコの盗賊が米国人を捕らえ,金との交換を要求したことが書かれていたのを記憶していると思う。この盗賊先生はタンジールから25露里(長村注:ロシアにおける距離の単位。1露里は1067mに相当する。)のところに住み,そのとき米国人から奪った金でたいへん立派な別荘を建てた。この者はいまでも盗賊を業とし,その同類が800人もいるという。
だれも市街の外に遠く行くことをしたがらないらしいが,奇態な風習である。本当だろうか。
私たちは3時にここに来て,駆逐隊を除くほかは我が全艦隊が投錨した。ここには数隻のフランス汽船と英国船一隻が碇泊している。
5時ごろにタンジールに他の汽船――病院船アリョールも到着した。同船は白色に塗り,その煙突に赤十字を描いてあり,檣頭にも赤十字旗を掲げている。先日の砲撃事件によって負傷した8名の中のひとり,アウローラの牧師は壊血症のため亡くなった。
英国のグーリに,いま日本の水雷艇が碇泊しているとの通信が入った。思うに,我が艦隊を襲撃しようとした者の一部であろう。
いま碇泊場には船舶が輻輳している。我が全艦隊はその運送船を率いてことごとく投錨し,またそのほかに我が艦隊に石炭を供給する私立汽船会社の多くの石炭船も碇泊している。
風説によれば,ロシアではすでに数隻の巡洋艦を購買し,これらの諸艦もまもなく到着して我が艦隊に合流するとのことである。たいへん結構なことである。
我が各戦闘艦はみな石炭の積み込みを始めた。全艦の繁忙と元気とは格別である。他艦と競争して,もっとも早く石炭の積み込みを終えた艦の水兵には賞金を与えるという規定が設けられたのである。先般の石炭積み込みのときには,アレキサンドルの乗員が1,200ルーブリの賞金を手にした。
戦地からは例のとおり,さらに新しい情報は入らず。
昨日は旅順において最悪の日となった。すなわち,日本軍は皇帝誕生の日に旅順に日の丸の旗を立てようとしたのである(長村注:このまま読むと,皇帝ニコライ二世の誕生日とも読めるが,実際の誕生日は1968年5月18日である。これは誕生日をさすのではなく,即位の日という意味で,ニコライ二世は1894年11月1日に即位した。ただし日本軍の旅順攻撃は,その前日の10月31日に乃木司令官が撤退を命じて不成功に終わっている。)
スワロフが投錨するとすぐに四方八方から,汽船や端艇を飛ばして諸艦の艦長,その他将校たちが続々来訪した。陸上からは,この地の地方官,我が国の領事,請負商人や外国軍艦の艦長なども来訪した。一言で言えば,あたかも演劇の開場前に群集が押し寄せるように,すべての人々がスワロフに急ぎ来たのである。我が戦艦からは殷々たる礼砲が響き,各種の旗を掲げ,楽隊の演奏があった。他の諸艦や陸上からもスワロフに対して礼砲を放った。活気が充満している。
地方住民の衣服は,はなはだ美麗で,あたかも仮面舞踏の服装のようである。ある者はゆったりしたズボンに短い上着を着て青い房のついた赤のトルコ帽を被り,その服の色もさまざまである。顔は誰を見てもみな黒い。風采は尊大である。このような人々を市中に見るのは非常に面白い。
我が駆逐隊は,この地からすでに地中海に向かった。彼らはその長旅の航海を11月1日に始めた。
夜,英字新聞ジブラルタル報知にアレキシーフが出発するという報道を載せた。また同紙上にステッセルが旅順をその墳墓とすると言って打電してきたことを記していた。
この(石炭積み込みの)光景をあなたにも見せたいものである。石炭積み込みのために上甲板において全員に非常召集があり,四方は真っ黒で諸汽船と戦闘艦とは電灯に照らされ,船倉内も甲板の上も,人々が右往左往しながら走り回っている。起重機は頻繁に動き,水兵の切れ切れの言葉(が聞こえる)。楽隊は愉快な調子で水兵の働きを励ます音楽を演奏している。音楽に合わせての働きはもっとも速くなるものである。
モロッコはフランスの保護国ではあるが,ここには英国・ドイツの郵便局がある。もしかしたらスペインのものもあるかもしれない。

私はいま,汽船パルラス号から帰ってきた。この汽船は我が艦隊に石炭を積み込むために来て,その積み込みの際に舷縁を破損したのである。
戦闘艦にはいろいろな商人が来て,絵はがき,ゴザ類,編み物,白靴,ヘルメットなどを売っていた。ヘルメット(これは英国人が熱帯地方でつねに用いる帽子)はすでに買った。はがきは6組も買ったが,あまり必要でもないので,その中のひとつを従卒に与えた。彼は大いに喜んでいた。適当な靴はなかったが,熱帯地方では白靴は必要なものである。
いまスワロフに我が領事館付のカワヤス(トルコの憲兵)が来訪した。顔は黒く,赤いトルコ帽に婦人服のような長いズボンを履き,素足に黄色の上靴を履いた,極めて奇態な服装である。彼はここに,私たちの出帆までいて郵便物を集めた。彼を乗せてきた汽船に100フランクを払わなければならない。安くはない船賃である。
いまから戦闘艦アリョールに行かなければならない。同艦に何事かが起こったようなのである。
ああ,濡れてしまった。膝まで濡れた。汽艇で会社の社長を尋ねてすべての石炭船を訪れた後,アリョールに赴く。雨は,まさにバケツをひっくり返したような大雨で,近くの船舶も幕で隠したように何も見えないほどの降りようである。雨は降り注ぎ,汽艇から雨水を汲み出すテントは漏り,非常に大変であった。私の身体に雨菌が発生しなかったことだけでも幸いであった。

いまから汽船エスペランスに行かなければならない。同船の錨になにか異常が起きたようである。しかし,もしかしたら行かなくても済むかもしれない。
夜7時,ついに行かざるを得なくなったため,エスペランス号に赴いた。深い靴を履いたが雨は止んだ。

この地の新聞に,旅順の我が軍艦が,またも滅亡したという報道がなされた。真偽のほどはどうであろうか。また当地の新聞には次のような説が掲げられた。我が艦隊の提督は英国人と談判中に,英国人が我が支隊のビゴ出発を許さなかったので英国人を殴打し,ついに戦争になった。その砲撃を聞いたものは多い。英国人は爆破された,云々。これをみれば,当地の新聞には虚報が多いことがわかる。
タンジールからダカールに向かう。

2005/11/03 in  | Comment (0)

11月2日

英国艦隊は,終夜我々の艦隊にぴたりと付いていたが,いまどこかに航走して去っていった。
朝8時の時報が報じられるとまもなく,アリョールは信号を掲げて推進機を破損したことを報じた。諸艦はみな進むのを止めた。アレキサンドルは端艇を降ろしてアリョールに海軍技師を遣わした。
9時,我が各戦闘艦とアナズイリはタンジールに向けて航走した。途中ときどきポルトガルの陸岸を眺望する。
我が各戦闘艦の進行を止めたとき,英国人はこれを,敵意を持つ示威行動と解したようである。彼らは迅速に一列に集まってただちに戦闘序列をつくった。ああ,この悪漢,狡猾で到るところ破廉恥(な行動)を演じて顧みない海上の優強者,ロシアの不倶戴天の仇敵,全世界はこれを憎んでいる。しかしみな,恨みを呑み込んで忍耐している。もしあなたが,スペイン人がいかに英国人を憎んで誹謗するかを見たなら,果たしてどう思うであろうか。彼らは憤慨して鉄拳を固め,もしなし得るならば何事をもしかねない有様である。
この海上の王が私たちの航海に妨害を加えることは,果たしてどのぐらいであろう。妨害はことごとくみな英国人の仕業でないものはない。私たちはすでに9か国の沿岸を通過した。スウェーデン,ノルウェー,デンマーク,ベルギー,オランダ,英国,フランス,ドイツ,スペインなどの諸国である。いまは10番目の沿岸――ポルトガルを通過している。ポルトガルは英国の同盟国とみなされる国で,至るところ英国贔屓とのことである。
夜,我が艦では皇帝アレキサンドル三世の記念の祈祷があった。
英国艦隊は,終日私たちをつけまわし,少しでも暗くなると,またも半円形をつくって我々を包囲する。彼らが灯火をつけて航進するときには,昨夜演じたような所作はしない。もし何事もなければ明日の3時ごろにはタンジールに到着する予定である。
1時間前にポルトガルのセントビンセントの岬を通過した。往年の大海戦があった古戦場である(長村注:1805年のトラファルガーの海戦のこと)
大雨があったが室内は息苦しく,蒸し暑くなった。私たちをつけまわす英国巡洋艦の数は増加して10隻になった。我が支隊は完全に彼らに取り囲まれながら航進している。英国艦隊に比較すれば,我が艦隊はいかに小弱なことか。英国艦隊はいつまで長く我々をつけまわすのか。ジブラルタルまでか,あるいはまだ先まで行くのかもしれない。
乗員はまたも服を脱がずに大砲のそばで横になる。このため,水兵は非常に疲労している。

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11月1日

ビゴからタンジールに向かう途中である。昨夜,前進する許可があった。今日7時に私たちの支隊は抜錨してビゴ湾を出航した。こうしたことで,ついに上陸することはできなかった。
昨日,アナズイリの機関士が上甲板から船倉に落ちた。しかし幸いなことにけがはなかった。
新聞に載った噂では,ドイツ海で汽船を砲撃したときにアウローラの牧師が負傷し,いまタンジールの病院に入院し,全艦隊もここに投錨したという。我が艦隊はそこまで同所に碇泊する必要はない。同所には碇泊場所もなく,まったくの外洋であってビゴとは大いに趣を異にする。ビゴは世界でも容易に得がたいほどの良湾である。湾内は水深が深く,また非常に広い。スペイン人は,このような天与の富源地を利用する能力がない。ビゴはたしかに世界的商業貿易を行うのに良港であるにもかかわらず,いまは海岸の哀れむべき一小都市に過ぎない。スペイン人は概してかなり貧乏であるように見える。それは彼らが非常に怠け者だからである。
ビゴの重要な貿易は鰯であり,同港には鰯の水産業場が設置されている。この鰯は湾内で獲れ,湾内の海面は各漁業組合のために四方四角に区画されたいくつかの漁場に分かれている。鰯を獲るために漁夫が他の組合所有の漁場に入って漁をすることは組合間で厳禁されている。もしこの禁を犯せば,たちまち喧嘩が起きる。この湾内には,この規約を犯す者を見張って,もっぱら喧嘩を業としているような船もあり,この船は規約を犯す者を見つけるとすぐにこれを捕まえて,復讐するためにその船を海岸に曳いていく。
天気はよい。しかし,すぐ近くも分からないほどの暗闇で星も見えず,上甲板にはやむを得ず必要な灯火を残すのみで,どこも真っ暗であり,互いに鉢合わせをもし兼ねないほどである。
アリョールは,また推進機の機関を破損したらしい。しかし,ともかくも操縦して他艦と進航をともにしている。
夜10時ごろ,我が艦隊を追尾してくるあやしい船舶を認めた。その船舶はいまや我が艦隊を包囲し,われわれと同じ航路を採って進んでいる。5,6隻である。夜半,まったく暗黒であったが,そのときこれらの船舶は,ことさらにわれわれを挑発するような態度をとった。すなわち,あるいはその全艦の灯火を隠し,あるいは我が艦隊を追い越し,あるいは追尾し,さらには我が艦隊に接触するほどに接近してくるなどの行動をする。
いま我が支隊は,この不明の船舶群のあたかも半円形の中に囲まれて進行している。この船舶の中の一隻が探照灯をもって他の一隻を照らしたとき,私たちがその艦影を熟視すると,その形状から推測して,これらの船舶は軍艦に違いない。彼ら艦船の行動の様子,灯火信号のこと,または彼らに遭遇した地点などのすべてを記録するよう命令が発せられた。乗員には吊床を与えず,大砲のそばに寝させることになった。
夜,少し明るくなって星影も現れたが,それもたびたび密雲に覆われた。この夜景の様は,燦然たる銀河の眺めなどの故郷タシケントの夜景を思い出させる。いま私たちの支隊を囲んでいる艦船は英国艦隊に違いなく,夜が明ければ姿を消すであろう。速やかに太洋に出なければならない。太洋に出て100マイルぐらい離れて航行すれば,何人にも認められないはずである。

2005/11/01 in  | Comment (0)