バルチック艦隊技術将校,ポリトゥスキーの日記

5月11日

ベスウブレーチヌイ修理の私の仕事はうまくいった。ダイオト港から駆逐艦ボードルイで艦隊に帰航したが,途中,石炭積み込みのためにホンコーヘに引き返す我が艦隊に出会った。外洋は波が高く石炭の積み込みが困難なためである。ここから明朝に出航することになるが実にわずらわしいことだ。我々は強制的に放逐されながら何回もここに現出する。ダイオト港は実際ホンコーヘの一部に過ぎず,ホンコーヘに広い海峡で連絡されている湾である。ダイオト湾は非常に風光明媚であり,海岸は断崖絶壁で草木が繁茂している。湾の一隅に難破したフランス砲艦が一隻横たわっていて,いまそれを取り壊している。陸岸には山羊,孔雀,猿,象,その他の動物がたいへん多い。
昨日はベスウブレーチヌイで午餐の饗応に与り,数時間甲板の上で談笑した。夜ははなはだ静かであった。の艦の乗員はみなたいへん睦まじく生活している。誕生日や命名日などには互いに贈答をし,時にはその贈り物がいかにも珍奇なものであることもあるという。この駆逐艦に一泊することを勧められたが辞退してカムチャツカに赴いた。カムチャツカでは私のために一室を備えてくれたが,私は空気が新鮮な甲板上のロングセーズに寝た。6時に私のために駆逐艦が遣わされた。カムチャツカで,スワロフに種々の手工作品を持っていくことを勧められたが持っていくには不便だったのでついに受け取らず,8時にカッターでスワロフに帰艦した。

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駆逐艦が動揺したので食卓には食器の落下を防ぐためのコロップの栓を処々に立てられた。このために食卓布にも穴を穿ってある。食器を置いたときに,その周囲にコロップの栓が立っているので食器は転倒しないのである。駆逐艦はスワロフとぶつかって砕かれることがないよう,巧みに接近した。私は四方に目を配って,もし駆逐艦が沈没し始めたらどこにつかまったらよいかを探し始めた。
ベスウブレーチヌイの士官などはスワロフの士官室から茶を分けてほしいと要求してきたので贈ることを約束した。昨日病院船アリョールで何かの用事のために水兵数名を船艙内に遣わした。艙内には毒ガスが充満しているため彼らが窒息し始めたので,一人を除くほかはみな逃げ出した。艙内でついに死亡した者はすでに今日あるいは昨日のうちに埋葬されたはずである。
あなたが送ってくれた肩章は正規のものではなく中尉のものであったので,私はそれを技師グリメル氏に贈った。彼は大いに喜んで,士官室でシャンペンのご馳走までしてくれた。私は肩章を与えたくはなかったが,無用のものを持っていても仕方がない。私は扁桃を焼いて人々にご馳走したのだが扁桃は変なにおいがした。中に蜚蟻に似た虫が入っていた。
明後日はウラジオに向けて出航する。多くの人々は危険を恐れている。私はあなたからの手紙をもらった後は自ら元気を覚え,未来のことに対して希望を覚えている。
日本人は我々がウラジオに到着する前にはあえて艦隊戦を行わず,かつウラジオに対して水雷攻撃をもってこれを威嚇すべく,また日本人はウラジオを陸上から遮断するだろう,という説がある。しかしいったい誰がそのような情報を事前に察知できるのだろうか。
あなたが今後しばらく手紙,特に電報を得られなかったとしても決して心配しないように。このような人跡が絶えた荒涼の地に隠れている状態で電信を発するのは非常に困難なのである。手紙は機会あるごとに送るつもりだ。これさえも我が艦隊は非常に準備に乏しい。あなたからの手紙も満足には配達されず,わずかに一部分だけである。受け取るまでの期間については言うのもばかばかしい。1月に出した手紙を5月のはじめに受け取るという始末である。あるいはさいきんの分として昨年10月発送の分を受け取った者もいた。ほとんど信じられないほどである。

2006/05/11 in ポリトゥスキーの日記 | posted by gen

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